しゅくがた》でも応じきれません。まず多数にお入り込みの場合を申しますと、宿方にあり合わせた人馬を出払いまして、その余は人馬の立ち帰るまで御猶予を願います。また、時刻によりましては宿方にお泊まりをも願います。これが平素の場合でございましたところ、近年は諸家様がそういう宿方の願いをもお聞き入れになりません。なんでも御威勢をもって継立て方をきびしく仰せ付けられるものですから、まあよんどころなく付近の村々から人馬を雇い入れまして、無理にもお継立てをいたします。そんな次第で。雇い金《きん》も年々に積もってまいりました。宿方困窮の基《もと》と申せば、あまりに諸家様の御権威が高くなったためかと存じます。それさえありませんでしたら、街道の仕事はもっと安らかに運べるはずでございます。」
「なるほど、そういうこともあろう。」と都筑駿河は言って、居並ぶ神保佐渡の方へ膝《ひざ》を向け直して、「御同役、いかがでしょう。くわしいことは書面にして差し出してもらいたいと思いますが。」
「御同感です。」と神保佐渡は手にした扇子で胸のあたりをあおぎながら答えた。
 道中|下方掛《したかたがか》りの役人らの間にもしきりに扇子が動いた。その時、徒士目付は奉行の意を受けて、庄屋側から差し出した人馬立辻帳《じんばたてつじちょう》の検閲を終わったら、いずれ三人に沙汰《さた》するであろうと言った。なお、過ぐる亥年《いどし》の三月から七月まで、将軍還御のおりのお供と諸役人が通行中に下された人馬賃銭の仕訳書上帳《しわけかきあげちょう》なるものを至急国もとから取り寄せて差し出せと言いつけた。


 細目にわたることは書面で、あとから庄屋側より差し出すように。そんな約束で半蔵らは神田橋外の奉行屋敷を出た。江戸城西丸の新築工事ができ上がる日を待つと見えて、剃髪《ていはつ》した茶坊主なぞが用事ありげに町を通り過ぎるのも目につく。城内で給仕役《きゅうじやく》を勤めるそれらの茶坊主までが、大名からもらうのを誇りとしていた縮緬《ちりめん》の羽織《はおり》も捨て、短い脇差《わきざし》も捨て、長い脇差を腰にぶちこみながら歩くというだけにも、武道一偏の世の中になって来たことがわかる。幕府に召し出されて幅《はば》をきかせている剣術師なぞは江戸で大変な人気だ。当時、御家人《ごけにん》旗本《はたもと》の間の大流行は、黄白《きじろ》な色の生平《きびら》の羽織に漆紋《うるしもん》と言われるが、往昔《むかし》家康公《いえやすこう》が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張《ぶば》った風俗がまた江戸に回《かえ》って来た。
 両国をさして帰って行く途中、平助は連れを顧みて、
「半蔵さん、君は時々立ち止まって、じっとながめているような人ですね。」
「御覧なさい、小さな宮本武蔵《みやもとむさし》や荒木又右衛門《あらきまたえもん》がいますよ。」
「ほんとに、江戸じゃ子供まで武者修行のまねだ。一般の人気がこうなって来たんでしょうかね。」
 そういう平助は実にゆっくりゆっくりと歩いた。
 その日は風の多い日で、半蔵らは柳原《やなぎわら》の土手にかかるまでに何度かひどい砂塵《すなぼこり》を浴びた。往《い》きには追い風であったから、まだよかったが、戻《もど》りには向い風になったからたまらない。土手の柳の間に古着《ふるぎ》古足袋《ふるたび》古股引《ふるももひき》の類《たぐい》を並べる露店から、客待ち顔な易者の店までが砂だらけだ。目もあけていられないようなやつが、また向こうからやって来る。そのたびに半蔵らは口をふさぎ、顔をそむけて、深い砂塵《すなぼこり》の通り過ぎるのを待った。乾燥しきった道路に舞い揚がる塵埃《ほこり》で、町の空までが濁った色に黄いろい。
 両国の旅籠屋《はたごや》に戻ってから、三人は二階で※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》をぬいだり、腰につけた印籠《いんろう》を床の間に預けたりして、互いにその日のことを語り合った。
「とにかく、きょうの模様を国の方へ報告して置くんですね。」
「早速福島の方へそう言ってやりましょう。」
「わたしも一つ馬籠《まごめ》へ手紙を出して、仕訳帳《しわけちょう》を至急取り寄せなけりゃならない。」
 多くの江戸の旅人宿と同じように、十一屋にも風呂場《ふろば》は設けてない。半蔵らは町の銭湯へ汗になったからだを洗いに行ったが、手ぬぐいを肩にかけて帰って来るころは、風も静まった。家々の表に打たれる水も都会の町中らしい時が来た。十一屋では夕飯も台所で出た。普通の場合、旅客は皆台所に集まって食った。
 食後に、半蔵らが二階にくつろいでいると、とかく同郷の客はなつかしいと言っている話し好きな十一屋の隠居
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