立って見渡しているうちに、不図眼に付いたものがあった。何気なく取上げて、日に晒《さら》された表紙の塵埃《ほこり》を払って見る。紛《まがい》も無い彼自身の著書だ。何年か前に出版したもので、今は版元でも品切に成っている。貸失《かしなく》して彼の手許《てもと》にも残っていない。とにかく一冊出て来た。それを買って、やがて相川はその店を出た。雨はポツポツ落ちて来た。家へ帰ってから読むつもりであったのを、その晩は青木という大学生に押掛けられた。割合に蚊の居ない晩で、二人で西瓜《すいか》を食いながら話した。はじめて例の著書が出版された当時、ある雑誌の上で長々と批評して、「ツルゲネエフの情緒あって、ツルゲネエフの想像なし」と言ったのは、この青木という男である。青木は八時頃に帰った。それから相川は本を披《あ》けて、畳の上に寝ころびながら読み初めた。種々《いろいろ》なことが出て来る。原や高瀬なぞの友達のこともある。何処へ嫁《かたづ》いてどうなったかと思うような人々のこともある。
「人は何事にても或事を成さば可なりと信ず。されどその或事とは何ぞや。われはそを知らむことを求む、されど未だ見出し得ず。さらば、斯
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