が無い。この度の出京はそれとなく職業を捜す為でもある。不安の念は絶えず原の胸にあった。
「では失礼します。君も御多忙《おいそがしい》でしょうから」原は帽子を執って起立《たちあが》った。「いずれ――明日――」
「まあ、いいじゃないか」と相川は眉を揚げて、自分で自分の銷沈《しょうちん》した意気を励ますかのように見えた。煙草好きな彼は更に新しい紙巻を取出して、それを燻《ふか》して見せて、自分は今それほど忙しくないという意味を示したが、原の方ではそうも酌《と》らなかった。
「乙骨君は近頃なかなか壮《さか》んなようだねえ」
 と不図思出したように、原は戸口のところに立って尋ねた。
「乙骨かい」と相川は受けて、「乙骨は君、どうして」
「何卒《どうぞ》、御逢いでしたら宜《よろ》しく」
「ああ」
 ※[#「つつみがまえ>夕」、第3水準1−14−76]々《そこそこ》にして原は出て行った。
 その日は、人の心を腐らせるような、ジメジメと蒸暑い八月上旬のことで、やがて相川も飜訳の仕事を終って、そこへペンを投出《ほうりだ》した頃は、もう沮喪《がっかり》して了った。いつでも夕方近くなると、無駄に一日を過したよう
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