から3字下げ]『五月雨や色紙へぎたる壁の跡』
かういふ句となつて形をとるまでには、芭蕉の情熱を何程抑へに抑へたものであるやも知れぬ。
芭蕉には全く宗教に行かうとした時もあつたらしい。
『かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさんとにはあらず。やゝ病身人に倦みて世をいとひし人に似たり。つら/\年月のうつりこし拙き身の科をおもふに、ある時は仕官懸命の地を羨み、一たびは佛籬祖室の扉に入らんとせしも、たよりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞して暫く生涯のはかりごととさへなれば、終には無能無才にして此一筋につながる。樂天は五臟の神を破り老杜は痩せたり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻のすみかならずや、とおもひ捨てゝ臥しぬ。』
こゝに引いたのは『猿簑』の卷の六にある『幻住庵の記』の終の部分だ。其角が『この道のおもて起すべき時なれや』と言つた『猿簑』句集のエピロオグとも言ふべきものの一節だ。
幻住庵は菅沼曲水の伯父にあたる幻住老人といふ僧の住んだ草庵で、そこに芭蕉はしばらく住んだといふことが、あの記文の中に書いてある。さういふ歴史は兎に角、私はあの幻住庵を芭蕉の生活の奧の方に光つて見える一つの象徴として想像したい。あの草庵を芭蕉の『生命の宮殿』とも想像したい。無常迅速の境地に身を置きながら永遠といふものに對して居るやうな詩人をあの草庵の中に置いて想像したい。
[#天から3字下げ]『先づたのむ椎の木もあり夏木立』
あの幻住庵の跡は石山から、一里ばかりも奧にあると聞いた。芭蕉の筆はあの草庵が形勝の好い位置にあつたことを示して居る。
『さすがに春の名殘も遠からず、つゝじ咲殘り、山藤松にかゝりて、時鳥しばしば過ぐるほど宿かし鳥の便りさへあるを、木つゝきのつゝくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂は呉楚東南にはしり、身は瀟湘洞庭に立つ。山はひつじ申にそばだち、人家よきほどに隔り、南薫峰よりおろし、北風海を浸して凉し。日枝の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣たるゝ舟あり、笠とりに通ふ木樵の聲、麓の小田に早苗とる歌、螢とびかふ夕闇の空に水鷄《くひな》のたゝく音、美景ものとして足らずといふことなし。』
こんな風に敍して行つた記文の一番終りの處へもつて行つて、自己の感想が可成明かに語つてある。『いづれか幻のすみかならずや。』芭蕉はあの一句を書くために、一篇の『幻住庵の記』を作つたと言つてもいゝやうな氣がする。かうした幻想が見たところ寫實的な芭蕉の藝術の奧にあるもので印象派風な蕪村や、現實的でそしてプリミテイブな味の籠つた一茶の藝術などに感じられないものだと思ふ。
北村透谷君にも松島へ行つて芭蕉を追想した文章があつた。俳諧の宗匠たる身で句を成さずに松島から引返したといふことは恐らく芭蕉の當時にあつて非常に不名譽であると思はねば成らないが、無言のまゝであの自然に對して來た芭蕉の姿が反《かへ》つてなつかしいといふのが、松島に遊んだ時の北村君の話であつた。北村君は芭蕉に寄せて、silence といふことに就いて書いたが、あれは特色の深い文章であつた。
多くの人の生涯を見るに、その人の出發したところと歸着したところとは餘程違つて見える場合が多い。宗房と言つた時代もある芭蕉が涙の多い五十年の生涯を送つて、『炭俵』の詩の境地まで屈せず撓まず歩きつゞけて行つたといふことは、餘程の精神力に富んだ人と思はざるを得ない。
芭蕉の弟子達によつて書かれた『花屋の日記』は芭蕉が臨終の記録として、吾國の文學の中でも稀に見るほどパセチツクなものだ。私は『枯尾花』にある其角の追悼の文章よりも、はるかに『花屋の日記』を愛する。あの日記の中には、弟子達の性格が躍動して居るばかりでなく、それらの人達に圍繞《とりま》かれながら嚴肅な死を死んで行つた芭蕉の姿が眼に見えるやうによくあらはれて居る。あの中には簡素な生活に甘んじて來た芭蕉が、弟子達のこゝろざしとあつて、皆の造つてすゝめた、『やはらかもの』の袖に手を通すところがある。あの中にはまた、病んだ芭蕉が弟子達に助けられて、日あたりの好い縁側にすべり出て、障子に飛びかふ蠅を眺めるさびしい光景が書いてある。
いづれにしても私は今まであまりに芭蕉といふ人を年寄扱ひにし過ぎて居たやうな氣がする。あまりに仙人扱ひにし過ぎて居たやうな氣もする。もつと血の氣の通《かよ》つた人を見つけねばならない。そこからあの抑制した藝術を味ひ直して見ねば成らない。
この考へ方から行くと、私は芭蕉翁桃青といふ人の肖像をそんな枯淡なものでなくて、もつと別のものに描かれたのを見たい。假令道服に似たやうなものを着け、隱者のやうな頭巾を冠つて居ても、その人の頬は若々しく、その人の眼には青年のやうな輝きのある肖像として見
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