い此頃も馬場君が見えた時に、私はこのことを同君に話して、それからあの芭蕉の藝術の底に籠る香氣の高い情熱に就いて語り合つたこともあつた。
『四十ぐらいの時に、芭蕉はもう翁といふ氣分で居たんだね。』
と、馬場君も言つて居た。もつとあの人が長く生きて居たらどんな詩の境地が展けて行つたらう、といふやうな話も私達の間に出た。
兎に角、私の心の驚きは今日まで自分の胸に描いて來た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。さう思つてもう一度芭蕉の全集をあけて見ると、『冬の日』の出來たのは芭蕉が四十歳になつたばかりの頃だとあるし、『曠野』の出來たのが四十五歳の頃だとある。『猿簑』の選ばれた頃ですら、芭蕉は四十八九歳の人だ。芭蕉の藝術はそれほど年老いた人の手に成つたものではなくて、實は中年の人から生れて來た抑へに抑へた藝術であると言はねばならない。
芭蕉が『閉關の説』に曰く、
『色は君子の惡《にく》むところにして、佛も五戒のはじめに置くといへども、流石に捨てがたき情のあやにくに哀なるかた/″\も多かるべし。人しれぬくらぶの山の梅の下ぶしに思ひの外の匂ひにしみて、忍ぶの岡の人目の關ももる人なくばいかなる過ちをか仕出でてん。あまの子の浪の枕に袖しほれて、家を賣り、身を失ふためしも多かれど、老の身の行末をむさぶり米錢の中に魂を苦しめて物の情をわきまへざるには遙かにまして罪ゆるしぬべし。人生七十を稀なりとして、身の盛なることは僅かに二十餘年なり。初めの老の來れること一夜の夢のごとし、五十年六十年のよはひ傾くよりあさましうくづをれて、宵寢がちに朝起したる寢覺の分別、何事をか貪る。おろかなるものは思ふ事多し。煩悶増長して一藝のすぐるゝものは是非の勝るものなり。是をもて世の營みに宛て、貪欲の魔界に心を怒らし、溝洫に溺れて生かすこと能はずと南華老仙の唯利害を破却し、老若を忘れて閑にならんこそ老の樂みとは言ふべけれ、人來れば無用の辭あり、出でては他の家業をさまたぐるもうし。尊敬が戸を閉ぢて、杜五郎が門を鎖さんには、友なきを友とし、貧しきを富めりとして、五十年の頑夫自ら書き、自ら禁戒となす。』
これを讀むと、中年の人の心持がさすがに隱されずにある。この文章の中には襲ひ來る『老』も書いてある。技藝の是非といふことも書いてある。沈默といふことも書いてある。貧しさの中に見つけた心の富といふことも書いてある。戀愛に對する孤獨な人の心も書きつけてある。
[#天から3字下げ]『あさがほや晝は鎖おろす門の垣』
この孤獨と、沈默と修道者のやうな苦しみとは、何を芭蕉の生涯に齎したらう。其角が『猿簑』の序文に書いたやうな俳諧にたましひを入れるといふ幻術は、あるひはそこから生れて來たのかも知れない。芭蕉の藝術が、印象派風な蕪村の藝術とは違つて、soul の藝術とも呼んで見たいのは矢張そこから來て居るのかも知れない。しかし芭蕉が五十一歳ぐらゐで此の世を去つたといふことと、この『閉關の説』にも出て居るやうな獨身獨居で形骸を苦しめたといふことと、その間には深い關係のないものだらうか。
[#天から3字下げ]『數らぬ身とな思ひそ玉祭』
私はあの句の心をあはれむ。
芭蕉の散文には何とも言つて見やうのない美しいリズムが流れて居る。曾て私は長谷川二葉亭氏が文品の最も高いものとして芭蕉の散文を擧げたのをある雜誌で讀んだ時に、うれしく思つたことを覺えてゐる。
全く思ひがけなかつたのは、私が巴里に居る頃、※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレエヌに芭蕉を比較した一節をカミイユ・モウクレエルの著述の中に見つけたことであつた。それを見つけた時に一部の佛蘭西人の中には芭蕉の名が傳へられて居ることを知つた、尤もあのカミイユ・モウクレエルといふやうな人が、どうして芭蕉を知つたかといふことは、一寸私には想像がつかない。
『笈の小文』、『奧の細道』などの旅行記が何度繰返して讀んでも飽きないことは今更こゝに言ふまでもないが、芭蕉が去來の落柿舍で書いたといふ『嵯峨日記』に私は特別の興味を覺える。芭蕉の日常生活の消息があの簡淨な日記の中によく窺はれるやうな氣がする。
あの中に、『獨り住むほど面白きはなし』などと言ひながら、羽紅夫婦をとめて五人で一張の蚊屋に寢るほど人懷こい芭蕉が居る。一つの蚊屋に五人では眠られなくて、皆夜半過から起きて、菓子を食ひながら曉近くまで話したといふことなぞが書いてある。その前の年に芭蕉が凡兆の家で泊つた時は、二疊の蚊屋に四ヶ國の人が寢て、思ふことが四つで、夢もまた四種と書いたと言出して、皆を笑はせたといふことなぞも出て居る。それからまたあの日記の中には百日程行脚を共にした杜國の死を夢に言出して、啜泣きして眼が覺めたといふ Passionate な芭蕉の性質もあらはれてゐる。
[#天
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