芭蕉
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)納《い》れて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)かず/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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佛蘭西の旅に行く時、私は鞄の中に芭蕉全集を納《い》れて持つて行つた。異郷の客舍にある間もよく取出して讀んで見た。『冬の日』、『春の日』から、『曠野』、『猿簑』を經て『炭俵』にまで到達した芭蕉の詩の境地を想像するのも樂しいことに思つた。
昔の人の書いたもので、それを讀んだ時はひどく感心したやうなものでも、歳月を經る間には自然と忘れてしまふものが多い。その中で、折にふれては思出し、何時《いつ》[#「何時《いつ》」は底本では「何《い》時」]取出して讀んで見ても飽きないのは芭蕉の書いたものだ。
『朝を思ひ、また夕を思ふべし。』
含蓄の多い芭蕉の詩や散文が折にふれては自分の胸に浮んで來るのは、あの『朝を思ひ、また夕を思ふべし』といふやうな心持から生れて來て居るからだとは思ふが、まだその他に自分の心をひく原因がある。近頃私は少年期から青年期へ移る頃にかけて受けた感動が深い影響を人の一生に及ぼすといふことに、よく思ひ當る。丁度さうした心の柔い、感じ易い年頃に、私は芭蕉の書いたものを愛讀した。その時に受けた感化が今だに私に續いて居る。どうかすると私は、少年時代に芭蕉を愛讀したと少しも變りのないやうな、それほど固定した印象を今日の自分に見つけることもある。
今から二十五六年ばかりも前に、私は近江から大和路の方へかけて旅したことがある。私はまだ極く若いさかりの年頃であつた。私は熱田から船で四日市へ渡り、龜山といふところに一晩泊つて、伊賀と近江の國境を歩いて越した。あれから琵琶湖の畔《ほとり》へ出、大津、瀬多、膳所なぞの町々を通つて西京から奈良へと通り、吉野路を旅した。私はもう一度琵琶湖の畔へ引返して石山の茶丈の一室に旅の足を休め、そこに一夏を送つたこともあつた。私は自分の郷里の木曾路の變遷を考へて見ても、何程若い時の自分の眼に映つた寂しい伊賀の山中や、吉野路の日あたりや、それから琵琶湖の畔が、その昔蕉門の詩人等の歩いた場所と違つた感じのものであるやを言ふことは出來ない。しかしあの旅も私に取つては芭蕉に對する感銘を深くさせた。
少年時代から私の胸に描いて居た芭蕉は、一口に言へば尊い『老年』であつた。私はつい近頃まで芭蕉といふ人のことを想像する度に、非常に年とつた人のやうに思つて居た。その晩年は、人として到達し得る最後の尊い境地の一つだといふ風に考へて居た。
こゝにも先入主となつた印象が今だに私の上に働いて居ることを感ずる。私があの湖十の編纂した芭蕉の『一葉集』を手にしたのは、まだ白金の明治學院に通つて居たほどの學生時代であつた。私が年少であればあるだけ、あの老成な紀行文なぞを書いた芭蕉が非常に年とつた人であるといふ想像を浮べずには居られなかつた。けれども是は自分が若かつた年頃に芭蕉を知つたといふばかりではなくかうした先入主となつた印象を強めるかず/″\のものが、他にもあつたと思ふ。實際三十一歳で既に髮を薙いでしまつて自ら風羅坊と稱したほどの人から、貧士竹齋に似て居ると言つて自ら狂句まで作つたほどの人から、大抵のものの受ける感じはあの笠翁といふ人の描いた芭蕉の肖像に見るやうな、隱者らしい着物に頭巾を冠つた年寄くさい人物であらねばならない。『翁』といふ言葉の持つ意味が一番よく宛嵌《あては》められるのも芭蕉であるやうな氣がする。
芭蕉は五十一歳で死んだ。それに就いて近頃私の心を驚かしたことがある。友人の馬場君はその昔白金の學窓を一緒に卒業した仲間であるが、私よりは三つほど年嵩にあたる同君が、來年はもう五十一歳だ。馬場君のことを孤蝶翁と呼んで見たところで、誰も承知するものは有るまいと思はれるほど同君はまだ若々しいが、來年の馬場君の歳に芭蕉は死んで居る。
これには私は驚かされた。老人だ、老人だ、と少年時代から思ひ込んで居た芭蕉に對する自分の考へ方を變へなければ成らなくなつて來た。思ひの外、芭蕉といふ人は若くて死んだのだと考へるやうになつて來た。成程元祿の昔と大正の今日とでは、社會の空氣からして違ふだらう。あの元祿時代の芭蕉翁に自分の友達仲間でも格別氣象の若々しい馬場君を比較することは、ちと無理かも知れない。それにしても私は芭蕉といふ人が大阪の花屋の座敷で此の世を去つたといふ時でも、實際に於いてそれほどの老年ではなかつたといふことを考へる。つ
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