『これ、お作や。』と細君の児を叱る声が起つた。『どうして其様《そん》な悪戯《いたづら》するんだい。女の児は女の児らしくするもんだぞ。真個《ほんと》に、どいつもこいつも碌なものはありやあしねえ。自分の子ながら愛想《あいそ》が尽きた。見ろ、まあ、進を。お前達二人より余程《よつぽど》御手伝ひする。』
『あれ、進だつて遊《あす》んで居やすよ。』といふのは省吾の声。
『なに、遊んでる?』と細君はすこし声を震はせて、『遊んでるものか。先刻《さつき》から御子守をして居やす。其様《そん》なお前のやうな役に立たずぢやねえよ。ちよツ、何ぞと言ふと、直に口答へだ。父さんが過多《めた》甘やかすもんだから、母さんの言ふことなぞ少許《ちつと》も聞きやしねえ。真個《ほんと》に図太《づな》い口の利きやうを為る。だから省吾は嫌ひさ。すこし是方《こちら》が遠慮して居れば、何処迄いゝ気に成るか知れやしねえ。あゝ必定《きつと》また蓮華寺へ寄つて、姉さんに何か言付けて来たんだらう。それで斯様《こんな》に遅くなつたんだらう。内証で隠れて行つて見ろ――酷いぞ。』
『奥様。』と音作は見兼ねたらしい。『何卒《どうか》まあ、今日《こんち》のところは、私《わし》に免じて許して下さるやうに。ない(なあと同じ農夫の言葉)、省吾さん、貴方《あんた》もそれぢやいけやせん。母さんの言ふことを聞かねえやうなものなら、私だつて提棒《さげぼう》(仲裁)に出るのはもう御免だから。』
 音作の女房も省吾の側へ寄つて、軽く背を叩《たゝ》いて私語《さゝや》いた。軈て女房は其手に槌の長柄を握らせて、『さあ、御手伝ひしやすよ。』と亭主の方へ連れて行つた。『どれ、始めずか(始めようか)。』と音作は省吾を相手にし、槌を振つて籾を打ち始めた。『ふむ、よう。』の掛声も起る。細君も、音作の女房も、復た仕事に取懸つた。
 図《はか》らず丑松は敬之進の家族を見たのである。彼《あ》の可憐な少年も、お志保も、細君の真実《ほんたう》の子では無いといふことが解つた。夫の貧を養ふといふ心から、斯うして細君が労苦して居るといふことも解つた。五人の子の重荷と、不幸な夫の境遇とは、細君の心を怒り易く感じ易くさせたといふことも解つた。斯う解つて見ると、猶々《なほ/\》丑松は敬之進を憐むといふ心を起したのである。
 今はすこし勇気を回復した。明《あきらか》に見、明に考へることが出来るやうに成つた。眼前《めのまへ》に展《ひろが》る郊外の景色を眺めると、種々《さま/″\》の追憶《おもひで》は丑松の胸の中を往つたり来たりする。丁度斯うして、田圃《たんぼ》の側《わき》に寝そべり乍ら、収穫《とりいれ》の光景《さま》を眺めた彼《あ》の無邪気な少年の時代を憶出《おもひだ》した。烏帽子《ゑぼし》一帯の山脈の傾斜を憶出した。其傾斜に連なる田畠と石垣とを憶出した。茅萱《ちがや》、野菊、其他種々な雑草が霜葉を垂れる畦道《あぜみち》を憶出した。秋風が田の面を渡つて黄な波を揚げる頃は、※[#「阜」の「十」に代えて「虫」、第4水準2−87−44]螽《いなご》を捕つたり、野鼠を追出したりして、夜はまた炉辺《ろばた》で狐と狢《むじな》が人を化かした話、山家で言ひはやす幽霊の伝説、放縦《ほしいまゝ》な農夫の男女《をとこをんな》の物語なぞを聞いて、余念もなく笑ひ興じたことを憶出《おもひだ》した。あゝ、穢多の子といふ辛い自覚の味を知らなかつた頃――思へば一昔――其頃と今とは全く世を隔てたかの心地がする。丑松はまた、あの長野の師範校で勉強した時代のことを憶出した。未だ世の中を知らなかつたところからして、疑ひもせず、疑はれもせず、他《ひと》と自分とを同じやうに考へて、笑つたり騒いだりしたことを憶出した。あの寄宿舎の楽しい窓を憶出した。舎監の赤い髭を憶出した。食堂の麦飯の香《にほひ》を憶出した。よく阿弥陀《あみだ》の※[#「鬥<亀」、第3水準1−94−30]《くじ》に当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。夜の休息《やすみ》を知らせる鐘が鳴り渡つて、軈《やが》て見廻りに来る舎監の靴の音が遠く廊下に響くといふ頃は、沈まりかへつて居た朋輩が復《ま》た起出して、暗い寝室の内で雑談に耽つたことを憶出した。終《しまひ》には往生寺の山の上に登つて、苅萱《かるかや》の墓の畔《ほとり》に立ち乍ら、大《おほき》な声を出して呼び叫んだ時代のことを憶出して見ると――実に一生の光景《ありさま》は変りはてた。楽しい過去の追憶《おもひで》は今の悲傷《かなしみ》を二重にして感じさせる。『あゝ、あゝ、奈何《どう》して俺は斯様《こんな》に猜疑深《うたがひぶか》くなつたらう。』斯う天を仰いで歎息した。急に、意外なところに起る綿のやうな雲を見つけて、しばらく丑松はそれを眺め乍ら考へて居たが、思はず知らず疲労《つかれ》が出て、『藁によ』に倚凭《よりかゝ》つたまゝ寝て了つた。

       (三)

 ふと眼を覚まして四辺《そこいら》を見廻した時は、暮色が最早《もう》迫つて来た。向ふの田の中の畦道《あぜみち》を帰つて行く人々も見える。荒くれた男女の農夫は幾群か丑松の側《わき》を通り抜けた。鍬《くは》を担いで行くものもあり、俵を背負つて行くものもあり、中には乳呑児《ちのみご》を抱擁《だきかゝ》へ乍ら足早に家路をさして急ぐのもあつた。秋の一日《ひとひ》の烈しい労働は漸《やうや》く終を告げたのである。
 まだ働いて居るものもあつた。敬之進の家族も急いで働いて居た。音作は腰を曲《こゞ》め、足に力を入れ、重い俵《たはら》を家の方へ運んで行く。後には女二人と省吾ばかり残つて、籾《もみ》を振《ふる》つたり、それを俵へ詰めたりして居た。急に『かあさん、かあさん。』と呼ぶ声が起る。見れば省吾の弟、泣いて反返《そりかへ》る児を背負《おぶ》ひ乍ら、一人の妹を連れて母親の方へ駈寄つた。『おゝ、おゝ。』と細君は抱取つて、乳房を出して銜《くは》へさせて、
『進や。父さんは何してるか、お前《めへ》知らねえかや。』
『俺《おら》知んねえよ。』
『あゝ。』と細君は襦袢《じゆばん》の袖口で※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》を押拭ふやうに見えた。『父さんのことを考へると、働く気もなにも失くなつて了ふ――』
『母さん、作ちやんが。』と進は妹の方を指差し乍ら叫んだ。
『あれ。』と細君は振返つて、『誰だい其袋を開けたものは――誰だい母さんに黙つて其袋を開けたものは。』
『作ちやんは取つて食ひやした。』と進の声で。
『真実《ほんと》に仕方が無いぞい――彼娘《あのこ》は。』と細君は怒気を含んで、『其袋を茲《こゝ》へ持つて来な――これ、早く持つて来ねえかよ。』
 お作は八歳《やつつ》ばかりの女の児。麻の袋を手に提げた儘、母の権幕を畏《おそ》れて進みかねる。『母さん、お呉《くん》な。』と進も他の子供も強請《せが》み付く。省吾も其と見て、母の傍へ駈寄つた。細君はお作の手から袋を奪取るやうにして、
『どれ、見せな――そいつたツても、まあ、情ない。道理で先刻《さつき》から穏順《おとな》しいと思つた。すこし母さんが見て居ないと、直に斯様《こん》な真似を為る。黙つて取つて食ふやうなものは、泥棒だぞい――盗人《ぬすツと》だぞい――ちよツ、何処へでも勝手に行つて了へ、其様《そん》な根性《こんじやう》の奴は最早《もう》母さんの子ぢやねえから。』
 斯う言つて、袋の中に残る冷《つめた》い焼餅《おやき》らしいものを取出して、細君は三人の児に分けて呉れた。
『母さん、俺《おん》にも。』とお作は手を出した。
『何だ、お前は。自分で取つて食つて置き乍ら。』
『母さん、もう一つお呉《くん》な。』と省吾は訴へるやうに、『進には二つ呉れて、私《わし》には一つしか呉ねえだもの。』
『お前は兄さんぢやねえか。』
『進には彼様《あん》な大いのを呉れて。』
『嫌なら、廃《よ》しな、さあ返しな――機嫌|克《よ》くして母さんの呉れるものを貰つた例《ためし》はねえ。』
 進は一つ頬張り乍ら、軈《やが》て一つの焼餅《おやき》を見せびらかすやうにして、『省吾の馬鹿――やい、やい。』と呼んだ。省吾は忌々敷《いま/\しい》といふ様子。いきなり駈寄つて、弟の頭を握拳《にぎりこぶし》で打つ。弟も利かない気。兄の耳の辺《あたり》を打ち返した。二人の兄弟は怒の為に身を忘れて、互に肩を聳して、丁度|野獣《けもの》のやうに格闘《あらそひ》を始める。音作の女房が周章《あわ》てゝ二人を引分けた時は、兄弟ともに大な声を揚げて泣叫ぶのであつた。
『どうしてまあ兄弟喧嘩《きやうだいげんくわ》を為るんだねえ。』と細君は怒つて、『左様《さう》お前達に側《はた》で騒がれると、母さんは最早《もう》気が狂《ちが》ひさうに成る。』
 斯の光景《ありさま》を丑松は『藁によ』の蔭に隠れ乍ら見て居た。様子を聞けば聞くほど不幸な家族を憐まずには居られなくなる。急に暮鐘の音に驚かされて、丑松は其処を離れた。
 寂しい秋晩の空に響いて、また蓮華寺の鐘の音が起つた。それは多くの農夫の為に、一日の疲労《つかれ》を犒《ねぎら》ふやうにも、楽しい休息《やすみ》を促《うなが》すやうにも聞える。まだ野に残つて働いて居る人々は、いづれも仕事を急ぎ初めた。今は夕靄《ゆふもや》の群が千曲川《ちくまがは》の対岸を籠《こ》めて、高社山《かうしやざん》一帯の山脈も暗く沈んだ。西の空は急に深い焦茶《こげちや》色に変つたかと思ふと、やがて落ちて行く秋の日が最後の反射を田《た》の面《も》に投げた。向ふに見える杜《もり》も、村落も、遠く暮色に包まれて了つたのである。あゝ、何の煩ひも思ひ傷むことも無くて、斯《か》ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩《あうなう》を感ずれば感ずる程、余計に他界《そと》の自然は活々《いき/\》として、身に染《し》みるやうに思はるゝ。南の空には星一つ顕《あらは》れた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳《おごそか》にして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
『しかし、其が奈何《どう》した。』と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》ますやうに言つた。『自分だつて社会の一員《ひとり》だ。自分だつて他《ひと》と同じやうに生きて居る権利があるのだ。』
 斯の思想《かんがへ》に力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白《ほのじろ》く、槌の音は冷々《ひや/″\》とした空気に響いて、『藁を集めろ』などゝいふ声も幽《かすか》に聞える。立つて是方《こちら》を向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。

       (四)

『おつかれ』(今晩は)と逢《あ》ふ人毎に声を掛けるのは山家の黄昏《たそがれ》の習慣《ならはし》である。丁度新町の町はづれへ出て、帰つて行く農夫に出逢ふ度に、丑松は斯《この》挨拶を交換《とりかは》した。一ぜんめし、御休所、笹屋、としてある家《うち》の前で、また『おつかれ』を繰返したが、其は他の人でもない、例の敬之進であつた。
『おゝ、瀬川君か。』と敬之進は丑松を押留めるやうにして、『好い処で逢つた。何時か一度君とゆつくり話したいと思つて居た。まあ、左様《さう》急がんでもよからう。今夜は我輩に交際《つきあ》つて呉れてもよからう。斯ういふ処で話すのも亦《ま》た一興だ。是非、君に聞いて貰ひたいこともあるんだから――』
 斯《か》う慫慂《そゝのか》されて、丑松は敬之進と一緒に笹屋の入口の敷居を跨いで入つた。昼は行商、夜は農夫などが疲労《つかれ》を忘れるのは茲《こゝ》で、大な炉《ろ》には『ぼや』(雑木の枝)の火が赤々と燃上つた。壁に寄せて古甕《ふるがめ》のいくつか並べてあるは、地酒が溢れて居るのであらう。今は農家は忙しい時季《とき》で、長く御輿《みこし》を座《す》ゑるものも
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