響き渡つたのは間も無くであつた。生徒は互ひに上草履鳴して、我勝《われがち》に体操場へと塵埃《ほこり》の中を急ぐ。軈《やが》て男女の教師は受持受持の組を集めた。相図の笛《ふえ》も鳴つた。次第に順を追つて、教師も生徒も動き始めたのである。高等四年の生徒は丑松の後に随《つ》いて、足拍子そろへて、一緒に長い廊下を通つた。

       (三)

 応接室には校長と郡視学とが相対《さしむかひ》に成つて、町会議員の来るのを待受けて居た。それは丑松のことに就いて、集つて相談したい、といふ打合せが有つたからで。尤《もつと》も、郡視学は約束の時間よりも早く、校長を尋ねてやつて来たのである。
 校長に言はせると、何も自分は悪意あつて異分子を排斥するといふ訳では無い。自分はもう旧派の教育者と言はれる一人で、丑松や銀之助なぞとはずつと時代が違つて居る。今日とても矢張自分等の時代で有ると言ひたいが、実は何時《いつ》の間にか世の中が変遷《うつりかは》つて来た。何が可畏《こは》いと言つたつて、新しい時代ほど可畏いものは無い。あゝ、老いたくない、朽《く》ちたくない、何時迄《いつまで》も同じ位置と名誉とを保つて居たい、後進の書生輩などに兜《かぶと》を脱いで降参したくない。それで校長は進取の気象に富んだ青年教師を遠ざけようとする傾向《かたむき》を持つのである。
 のみならず、丑松や銀之助は彼の文平のやうに自分の意を迎へない。教員会のある度に、意見が克《よ》く衝突する。何かにつけて邪魔に成る。彼様《あん》な喙《くちばし》の黄色い手合が、校長の自分よりも生徒に慕はれて居るとあつては、第一それが小癪に触る。何も悪意あつて排斥するでは無いが、学校の統一といふ上から言ふと、是《これ》も亦《ま》た止むを得ん――斯う校長は身の衛《まも》りかたを考へたので。
『町会議員も最早《もう》見えさうなものだ。』と郡視学は懐中時計を取出して眺め乍ら言つた。『時に、瀬川君のこともいよ/\物に成りさうですかね。』
 この『物に』が校長を笑はせた。
『しかし。』と郡視学は言葉を継《つ》いで、『是方《こつち》から其を言出しては面白くない。町の方から言出すやうになつて来なければ面白くない。』
『其です。其を私も思ふんです。』と校長は熱心を顔に表して答へた。
『見給へ。瀬川君が居なくなる、土屋君が居なくなる、左様《さう》なれば君もう是方《こつち》のものさ。瀬川君のかはりには彼《あ》の甥《をひ》を使役《つか》つて頂くとして、手の明いたところへは必ず僕が適当な人物を周旋しますよ。まあ、悉皆《すつかり》吾党で固めて了はうぢや有ませんか。左様《さう》して置きさへすれば、君の位置は長く動きませんし、僕も亦《ま》た折角心配した甲斐《かひ》があるといふもんです――はゝゝゝゝ。』
 斯ういふ談話《はなし》をして居るところへ、小使が戸を開けて入つて来た。続いて三人の町会議員もあらはれた。
『さあ、何卒《どうぞ》是方《こちら》へ。』と校長は椅子を離れて丁寧に挨拶する。
『いや、どうも遅なはりまして、失礼しました。』と金縁の眼鏡を掛けた議員が快濶《くわいくわつ》な調子で言つた。『実は、高柳君も彼様いふやうな訳で、急に選挙の模様が変りましたものですから。』

       (四)

 其日、長野の師範校の生徒が二十人ばかり、参観と言つて学校の廊下を往つたり来たりした。丑松が受持の教室へも入つて来た。丁度高等四年では修身の学課を終つて、二時間目の数学に取掛つたところで、生徒は頻《しきり》に問題を考へて居る最中。参観人の群が戸を開けてあらはれた時は、一時靴の音で妨げられたが、軈《やが》て其も静つてもとの通りに成つた。寂《しん》とした教室の内には、石盤を滑る石筆の音ばかり。丑松は机と机との間を歩いて、名残惜しさうに一同の監督をした。時々参観人の方を注意して見ると、制服着た連中がずらりと壁に添ふて並んで、いづれも一廉《いつぱし》の批評家らしい顔付。楽しい学生時代の種々《さま/″\》は丑松の眼前《めのまへ》に彷彿《ちらつ》いて来た。丁度自分も同級の人達と一緒に、師範校の講師に連れられて、方々へ参観に出掛けた当時のことを思ひ浮べた。残酷な、とは言へ罪の無い批評をして、到るところの学校の教師を苦めたことを思ひ浮べた。丑松とても一度は斯の参観人と同じ制服を着た時代があつたのである。
『出来ましたか――出来たものは手を挙げて御覧なさい。』
 といふ丑松の声に応じて、後列の方の級長を始め、すこし覚束ないと思はれるやうな生徒まで、互に争つて手を挙げた。あまり数学の出来る方でない省吾までも、めづらしく勇んで手を挙げた。
『風間さん。』
 と指名すると、省吾は直に席を離れて、つか/\と黒板の前へ進んだ。
 冬の日の光は窓の玻璃《ガラス》を通して教へ慣《な》れた教室の内を物寂しく照して見せる。平素《ふだん》は何の感想《かんじ》をも起させない高い天井から、四辺《まはり》の白壁まで、すべて新しく丑松の眼に映つた。正面に懸けてある黒板の前に立つて、白墨で解答《こたへ》を書いて居る省吾の後姿は、と見ると、実に今が可愛らしい少年の盛り、肩揚のある筒袖羽織《つゝそでばおり》を着て、首すこし傾《かし》げ、左の肩を下げ、高いところへ数字を書かうとする度に背延びしては右の手を届かせるのであつた。省吾は克く勉強する質《たち》の生徒で、図画とか、習字とか、作文とかは得意だが、毎時《いつも》理科や数学で失敗《しくじ》つて、丁度十五六番といふところを上つたり下つたりして居る。不思議にも其日は好く出来た。
『是と同じ答の出たものは手を挙げて御覧なさい。』
 後列の方の生徒は揃つて手を挙げた。省吾は少許《すこし》顔を紅《あか》くして、やがて自分の席へ復《もど》つた。参観人は互に顔を見合せ乍ら、意味の無い微笑《ほゝゑみ》を交換《とりかは》して居たのである。
 斯《か》ういふことを繰返して、問題を出したり、説明して聞かせたりして、数学の時間を送つた。其日に限つては、妙に生徒一同が静粛で、参観人の居ない最初の時間から悪戯《わるふざけ》なぞを為るものは無かつた。極《きま》りで居眠りを始める生徒や、狐鼠々々《こそ/\》机の下で無線電話をかける技師までが、唯もう行儀よくかしこまつて居た。噫《あゝ》、生徒の顔も見納め、教室も見納め、今は最後の稽古をする為に茲《こゝ》に立つて居る、と斯《か》う考へると、自然《おのづ》と丑松は胸を踊らせて、熱心を顔に表して教へた。

       (五)

『無論市村さんは当選に成りませう。』と応接室では白髯《しろひげ》の町会議員が世慣《よな》れた調子で言出した。『人気といふ奴《やつ》は可畏《おそろ》しいものです。高柳君が彼様《あゝ》いふことになると、最早誰も振向いて見るものが有ません。多少|掴《つか》ませられたやうな連中まで、ずつと市村さんの方へ傾《かし》いで了ひました。』
『是《これ》といふのも、あの猪子といふ人の死んだ御蔭なんです――余程市村さんは御礼を言つても可《いゝ》。』と金縁眼鏡の議員が力を入れた。
『して見ると新平民も馬鹿になりませんかね。』と郡視学は胸を突出して笑つた。
『なりませんとも。』と白髯の議員も笑つて、『どうして、彼丈《あれだけ》の決心をするといふのは容易ぢや無い。しかし猪子のやうな人物《ひと》は特別だ。』
『左様《さう》さ――彼《あれ》は彼、是《これ》は是さ。』
 と顔に薄痘痕《うすあばた》のある商人の出らしい議員が言出した時は、其処に居並ぶ人々は皆笑つた。『彼は彼、是は是』と言つた丈《だけ》で、其意味はもう悉皆《すつかり》通じたのである。
『はゝゝゝゝ。只今《たゞいま》御話の出ました「是」の方の御相談ですが、』と金縁眼鏡の議員は巻煙草を燻《ふか》し乍ら、『郡視学さんにも一つ御心配を願ひまして、あまり町の方でやかましく成りません内に――左様、御転任に成るといふものか、乃至《ないし》は御休職を願ふといふものか、何とかそこのところを考へて頂きたいもので。』
『はい。』と郡視学は額へ手を当てた。
『実に瀬川先生には御気の毒ですが、是も拠《よんどころ》ない。』と白髯の議員は嘆息した。『御承知の通りな土地柄で、兎角《とかく》左様いふことを嫌ひまして――彼先生は実はこれ/\だと生徒の父兄に知れ渡つて御覧なさい、必定《きつと》、子供は学校へ出さないなんて言出します。そりやあもう、眼に見えて居ます。現に、町会議員の中にも、恐しく苦情を持出した人がある。一体学務委員が気が利かないなんて、私共に喰つて懸るといふ仕末ですから。』
『まあ、私共始め、左様《さう》いふことを伺つて見ますと、あまり好い心地《こゝろもち》は致しませんからなあ。』と薄痘痕《うすあばた》の議員が笑ひ乍ら言葉を添へる。
『しかし、それでは学校に取りまして非常に残念なことです。』と校長は改《あらたま》つて、『瀬川君が好くやつて下さることは、定めし皆さんも御聞きでしたらう――私もまあ片腕程に頼みに思つて居るやうな訳で。学才は有ますし、人物は堅実《たしか》ですし、それに生徒の評判《うけ》は良し、若手の教育者としては得難い人だらうと思ふんです。素性《うまれ》が卑賤《いや》しいからと言つて、彼様《あゝ》いふ人を捨てるといふことは――実際、聞えません。何卒《どうか》まあ皆さんの御尽力で、成らうことなら引留めるやうにして頂きたいのですが。』
『いや。』と金縁眼鏡の議員は校長の言葉を遮つた。『御尤《ごもつとも》です。只今のやうな校長先生の御意見を伺つて見ますと、私共が斯様《こん》な御相談に参るといふことからして、恥入る次第です。成程《なるほど》、学問の上には階級の差別も御座《ござい》ますまい。そこがそれ、迷信の深い土地柄で。左様いふ美しい思想《かんがへ》を持つた人は鮮少《すくな》いものですから――』
『どうも未《ま》だそこまでは開けませんのですな。』と薄痘痕の議員が言つた。
『ナニ、それも、猪子先生のやうに飛抜けて了へば、また人が許しもするんですよ。』と白髯の議員は引取つて、『其証拠には、宿屋でも平気で泊めますし、寺院《てら》でも本堂を貸しますし、演説を為《す》るといへば人が聴きにも出掛けます。彼《あの》先生のは可厭《いや》に隠蔽《かく》さんから可《いゝ》。最初からもう名乗つてかゝるといふ遣方ですから、左様《さう》なると人情は妙なもので、むしろ気の毒だといふ心地《こゝろもち》に成る。ところが、瀬川先生や高柳君の細君のやうに、其を隠蔽《かく》さう/\とすると、余計に世間の方では厳《やかま》しく言出して来るんです。』
『大きに――』と郡視学は同意を表した。
『どうでせう、御転任といふやうなことにでも願つたら。』と金縁眼鏡の議員は人々の顔を眺め廻した。
『転任ですか。』と郡視学は仔細らしく、『兎角《とかく》条件附の転任は巧くいきませんよ。それに、斯《か》ういふことが世間へ知れた以上は、何処《どこ》の学校だつても嫌がりますさ――先づ休職といふものでせう。』
『奈何《どう》なりとも、そこは貴方の御意見通りに。』と白髯の議員は手を擦《も》み乍ら言つた。『町会議員の中には、「怪しからん、直に追出して了へ」なんて、其様な暴論を吐くやうな手合も有るといふ場合ですから――何卒《どうか》まあ、何分|宜敷《よろしい》やうに、御取計ひを。』

       (六)

 兎《と》に角《かく》其日の授業だけは無事に済した上で、と丑松は湧上《わきあが》るやうな胸の思を制《おさ》へ乍《なが》ら、三時間目の習字を教へた。手習ひする生徒の背後《うしろ》へ廻つて、手に手を持添へて、漢字の書方なぞを注意してやつた時は、奈何《どんな》に其筆先がぶる/\と震へたらう。周囲《まはり》の生徒はいづれも伸《の》しかかつて眺《なが》めて、墨だらけな口を開いて笑ふのであつた。
 小使の振鳴す大鈴の音が三時間目の終を知らせる頃には、最早《もう》郡視学も、町会議員も帰つて了つた。師範校の生徒は猶《なほ》残つて午後の授業をも観たいといふ。昼飯《ひ
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