《か》う注文したのが軈て眼前《めのまへ》に並んだ。丑松はやたらに激昂して慄《ふる》へたり、丼《どんぶり》にある饂飩のにほひを嗅いだりして、黙つて他《ひと》の談話《はなし》を聞き乍ら食つた。
 零落――丑松は今その前に面と向つて立つたのである。船頭や、橇曳《そりひき》や、まあ下等な労働者の口から出る言葉と溜息とは、始めて其意味が染々《しみ/″\》胸に徹《こた》へるやうな気がした。実際丑松の今の心地《こゝろもち》は、今日あつて明日を知らない其日暮しの人々と異なるところが無かつたからで。炉の火は好く燃えた。人々は飲んだり食つたりして笑つた。丑松も亦《ま》た一緒に成つて寂しさうに笑つたのである。
 斯《か》うして待つて居る間が実に堪へがたい程の長さであつた。時は遅く移り過ぎた。そこに居た橇曳が出て行つて了ふと、交替《いれかはり》に他の男が入つて来る。聞くとも無しに其話を聞くと、高柳一派の運動は非常なもので、壮士に掴ませる金ばかりでもちつとやそつとでは有るまいとのこと。何屋とかを借りて、事務所に宛てゝ、料理番は詰切《つめきり》、酒は飲放題《のみはうだい》、帰つて来る人、出て行く人――其混雑は一通りで無いと言ふ。それにしても、今夜の演説会が奈何《どんな》に町の人々を動すであらうか、今頃はあの先輩の男らしい音声が法福寺の壁に響き渡るであらうか、と斯う想像して、会も終に近くかと思はれる頃、丑松は飲食《のみくひ》したものゝ外に幾干《いくら》かの茶代を置いて斯《こ》の饂飩屋を出た。
 月は空にあつた。今迄黄ばんだ洋燈《ランプ》の光の内に居て、急に斯《か》う屋《うち》の外へ飛出して見ると、何となく勝手の違つたやうな心地がする。薄く弱い月の光は家々の屋根を伝つて、往来の雪の上に落ちて居た。軒廂《のきびさし》の影も地にあつた。夜の靄《もや》は煙のやうに町々を籠めて、すべて遠く奥深く物寂しく見えたのである。青白い闇――といふことが言へるものなら、其は斯ういふ月夜の光景《ありさま》であらう。言ふに言はれぬ恐怖《おそれ》は丑松の胸に這ひ上つて来た。
 時とすると、背後《うしろ》の方からやつて来るものが有つた。是方《こちら》が徐々《そろ/\》歩けば先方《さき》も徐々歩き、是方が急げば先方も急いで随《つ》いて来る。振返つて見よう/\とは思ひ乍らも、奈何《どう》しても其を為《す》ることが出来ない。あ、誰か自分を捕《つかま》へに来た。斯う考へると、何時の間にか自分の背後《うしろ》へ忍び寄つて、突然《だしぬけ》に襲ひかゝりでも為るやうな気がした。とある町の角のところ、ぱつたり其足音が聞えなくなつた時は、始めて丑松も我に帰つて、ホツと安心の溜息を吐《つ》くのであつた。
 前の方からも、亦《また》。あゝ月明りのおぼつかなさ。其光には何程《どれほど》の物の象《かたち》が見えると言つたら好からう。其陰には何程の色が潜んで居ると言つたら好からう。煙るやうな夜の空気を浴び乍ら、次第に是方《こちら》へやつて来る人影を認めた時は、丑松はもう身を縮《すく》めて、危険の近《ちかづ》いたことを思はずには居られなかつたのである。一寸是方を透して視て、軈て影は通過ぎた。
 それは割合に気候の緩《ゆる》んだ晩で、打てば響くかと疑はれるやうな寒夜の趣とは全く別の心地がする。天は遠く濁つて、低いところに集る雲の群ばかり稍《やゝ》仄白《ほのじろ》く、星は隠れて見えない中にも唯一つ姿を顕《あらは》したのがあつた。往来に添ふ家々はもう戸を閉めた。ところ/″\灯は窓から泄《も》れて居た。何の音とも判らない夜の響にすら胸を踊らせ乍ら、丑松は※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》とした町を通つたのである。

       (二)

 丁度演説会が終つたところだ。聴衆の群は雪を踏んでぞろ/\帰つて来る。思ひ/\のことを言ふ人々に近いて、其となく会の模様を聞いて見ると、いづれも激昂したり、憤慨したりして、一人として高柳を罵《のゝし》らないものは無い。あるものは斯の飯山から彼様《あん》な人物を放逐して了《しま》へと言ふし、あるものは市村弁護士に投票しろと呼ぶし、あるものは又、世にある多くの政事家に対して激烈な絶望を泄《もら》し乍ら歩くのであつた。
 月明りに立留つて話す人々も有る。其|一群《ひとむれ》に言はせると、蓮太郎の演説はあまり上手の側では無いが、然し妙に人を※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《ひきつけ》る力が有つて、言ふことは一々聴衆の肺腑を貫いた。高柳派の壮士、六七人、頻《しきり》に妨害を試みようとしたが、終《しまひ》には其も静《しづま》つて、水を打つたやうに成つた。悲壮な熱情と深刻な思想とは蓮太郎の演説を通しての著しい特色であつた。時とすると其が病的にも聞えた。最後に蓮太郎は、不真面目な政事家が社会を過《あやま》り人道を侮辱する実例として、烈しく高柳の急所をつ衝《つ》いた。高柳の秘密――六左衛門との関係――すべて其卑しい動機から出た結婚の真相が残るところなく発表された。
 また他の一群に言はせると、其演説をして居る間、蓮太郎は幾度か血を吐いた。終つて演壇を下りる頃には、手に持つた※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]子《ハンケチ》が紅く染つたとのことである。
 兎に角、蓮太郎の演説は深い感動を町の人々に伝へたらしい。丑松は先輩の大胆な、とは言へ男性《をとこ》らしい行動《やりかた》に驚いて、何となく不安な思を抱かずには居られなかつたのである。それにしても最早《もう》宿屋の方に帰つて居る時刻。行つて逢《あ》はう。斯う考へて、夢のやうに歩いた。ぶらりと扇屋の表に立つて、軒行燈の影に身を寄せ乍ら、屋内《なか》の様子を覗《のぞ》いて見ると、何か斯う取込んだことでも有るかのやうに人々が出たり入つたりして居る。亭主であらう、五十ばかりの男、周章《あわたゞ》しさうに草履を突掛け乍ら、提灯《ちやうちん》携げて出て行かうとするのであつた。
 呼留めて、蓮太郎のことを尋ねて見て、其時丑松は亭主の口から意外な報知《しらせ》を聞取つた。今々法福寺の門前で先輩が人の為に襲はれたといふことを聞取つた。真実《ほんと》か、虚言《うそ》か――もし其が事実だとすれば、無論高柳の復讐《ふくしう》に相違ない。まあ、丑松は半信半疑。何を考へるといふ暇も無く、たゞ/\胸を騒がせ乍ら、亭主の後に随《つ》いて法福寺の方へと急いだのである。
 あゝ、丑松が駈付けた時は、もう間に合はなかつた。丑松ばかりでは無い、弁護士ですら間に合はなかつたと言ふ。聞いて見ると、蓮太郎は一歩《ひとあし》先へ帰ると言つて外套《ぐわいたう》を着て出て行く、弁護士は残つて後仕末を為《し》て居たとやら。傷といふは石か何かで烈しく撃たれたもの。只《たゞ》さへ病弱な身、まして疲れた後――思ふに、何の抵抗《てむかひ》も出来なかつたらしい。血は雪の上を流れて居た。

       (三)

 左《と》も右《かく》も検屍《けんし》の済む迄《まで》は、といふので、蓮太郎の身体は外套で掩《おほ》ふた儘《まゝ》、手を着けずに置いてあつた。思はず丑松は跪《ひざまづ》いて、先輩の耳の側へ口を寄せた。まだそれでも通じるかと声を掛けて見る。
『先生――私です、瀬川です。』
 何と言つて呼んで見ても、最早聞える気色《けしき》は無かつたのである。
 月の光は青白く落ちて、一層|凄愴《せいさう》とした死の思を添へるのであつた。人々は同じやうに冷い光と夜気とを浴び乍ら、巡査や医者の来るのを待佗《まちわ》びて居た。あるものは影のやうに蹲《うづくま》つて居た。あるものは並んで話し/\歩いて居た。弁護士は悄然《しよんぼり》首を垂れて、腕組みして、物も言はずに突立つて居た。
 軈て町の役人が来る、巡査が来る、医者が来る、間も無く死体の検査が始つた。提灯の光に照された先輩の死顔は、と見ると、頬の骨|隆《たか》く、鼻尖り、堅く結んだ口唇は血の色も無く変りはてた。男らしい威厳を帯びた其|容貌《おもばせ》のうちには、何処となく暗い苦痛の影もあつて、壮烈な最後の光景《ありさま》を可傷《いたま》しく想像させる。見る人は皆な心を動された。万事は侠気《をとこぎ》のある扇屋の亭主の計らひで、検屍が済む、役人達が帰つて行く、一先づ死体は宿屋の方へ運ばれることに成つた。戸板の上へ載せる為に、弁護士は足の方を持つ、丑松は頭の方へ廻つて、両手を深く先輩の脇の下へ差入れた。あゝ、蓮太郎の身体は最早冷かつた。奈何《どんな》に丑松は名残惜しいやうな気に成つて、蒼《あを》ざめた先輩の頬へ自分の頬を押宛てゝ、『先生、先生。』と呼んで見たらう。其時亭主は傍へ寄つて、だらりと垂れた蓮太郎の手を胸の上に組合せてやつた。斯うして戸板に載せて、其上から外套を懸けて、扇屋を指して出掛けた頃は、月も落ちかゝつて居た。人々は提灯の光に夜道を照し乍ら歩いた。丑松は亦たさく/\と音のする雪を踏んで、先輩の一生を考へ乍ら随《つ》いて行つた。思当ることが無いでも無い。あの根村の宿屋で一緒に夕飯《ゆふめし》を食つた時、頻に先輩は高柳の心を卑《いやし》で[#「卑《いやし》で」はママ]、『是程新平民といふものを侮辱した話は無からう』と憤つたことを思出した。あの上田の停車場《ステーション》へ行く途中、丁度橋を渡つた時にも、『どうしても彼様《あん》な男に勝たせたく無い、何卒《どうか》して斯《こ》の選挙は市村君のものにして遣りたい』と言つたことを思出した。『いくら吾儕《われ/\》が無智な卑賤《いや》しいものだからと言つて、踏付けられるにも程が有る』と言つたことを思出した。『高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地《いくぢ》が無さ過ぎるからねえ』と言つたことを思出した。それから彼《あ》の細君が一緒に東京へ帰つて呉れと言出した時に、先輩は叱つたり※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげま》したりして、丁度|生木《なまき》を割《さ》くやうに送り返したことを思出した。彼是《かれこれ》を思合せて考へると――確かに先輩は人の知らない覚期《かくご》を懐にして、斯《こ》の飯山へ来たらしいのである。
 斯ういふことゝ知つたら、もうすこし早く自分が同じ新平民の一人であると打明けて話したものを。あるひは其を為たら、自分の心情《こゝろもち》が先輩の胸にも深く通じたらうものを。
 後悔は何の益《やく》にも立たなかつた。丑松は恥ぢたり悲んだりした。噫《あゝ》、数時間前には弁護士と一緒に談《はな》し乍ら扇屋を出た蓮太郎、今は戸板に載せられて其同じ門を潜るのである。不取敢《とりあへず》、東京に居る細君のところへ、と丑松は引受けて、電報を打つ為に郵便局の方へ出掛けることにした。夜は深かつた。往来を通る人の影も無かつた。是非打たう。局員が寝て居たら、叩《たゝ》き起しても打たう。それにしても斯《この》電報を受取る時の細君の心地《こゝろもち》は。と想像して、さあ何と文句を書いてやつて可《いゝ》か解らない位であつた。暗く寂《さみ》しい四辻の角のところへ出ると、頻に遠くの方で犬の吠《ほえ》る声が聞える。其時はもう自分で自分を制《おさ》へることが出来なかつた。堪へ難い悲傷《かなしみ》の涙は一時に流れて来た。丑松は声を放つて、歩き乍ら慟哭《どうこく》した。

       (四)

 涙は反《かへ》つて枯れ萎《しを》れた丑松の胸を湿《うるほ》した。電報を打つて帰る道すがら、丑松は蓮太郎の精神を思ひやつて、其を自分の身に引比べて見た。流石《さすが》に先輩の生涯《しやうがい》は男らしい生涯であつた。新平民らしい生涯であつた。有の儘《まゝ》に素性を公言して歩いても、それで人にも用ゐられ、万《よろづ》許されて居た。『我は穢多を恥とせず。』――何といふまあ壮《さか》んな思想《かんがへ》だらう。其に比べると自分の今の生涯は――
 其時に成つて、始めて丑松も気がついたのである。自分は其を隠蔽《かく》さう隠蔽さうとして、持つて生れた自然の性質を銷磨《すりへら
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