揮するやうな調子で言つた。『諸君。まあ聞き給へ。今日《こんにち》迄我輩は諸君の先生だつた。明日《あす》からは最早《もう》諸君の先生ぢや無い。そのかはり、諸君の音楽隊の指揮をしてやる。よしか。解つたかね。あはゝゝゝ。』と笑つたかと思ふと、熱い涙《なんだ》は其顔を伝つて流れ落ちた。
 無邪気な音楽隊は、一斉に歓呼を揚げて、足拍子揃へて通過ぎた。敬之進は何か思出したやうに、熟《じつ》と其少年の群を見送つて居たが、軈《やが》て心付いて歩き初めた。
『まあ、君と一緒に其処迄行かう。』と敬之進は身を慄《ふる》はせ乍ら、『時に瀬川君、まだ斯の通り日も暮れないのに、洋燈《ランプ》を持つて歩くとは奈何《どう》いふ訳だい。』
『私ですか。』と丑松は笑つて、『私は今引越をするところです。』
『あゝ引越か。それで君は何処へ引越すのかね。』
『蓮華寺へ。』
 蓮華寺と聞いて、急に敬之進は無言になつて了つた。暫時《しばらく》の間、二人は互に別々のことを考へ乍ら歩いた。
『あゝ。』と敬之進はまた始めた。『実に瀬川君なぞは羨ましいよ。だつて君、左様《さう》ぢやないか。君なぞは未だ若いんだもの。前途多望とは君等のことだ。何卒《どうか》して我輩も、もう一度君等のやうに若くなつて見たいなあ。あゝ、人間も我輩のやうに老込んで了つては駄目だねえ。』

       (六)

 車は遅かつた。丑松敬之進の二人は互に並んで話し/\随いて行つた。とある町へ差掛かつた頃、急に車夫は車を停めて、冷々《ひや/″\》とした空気を呼吸し乍《なが》ら、額に流れる汗を押拭つた。見れば町の空は灰色の水蒸気に包まれて了《しま》つて、僅に西の一方に黄な光が深く輝いて居る。いつもより早く日は暮れるらしい。遽《にはか》に道路《みち》も薄暗くなつた。まだ灯《あかり》を点《つ》ける時刻でもあるまいに、もう一軒点けた家《うち》さへある。其軒先には三浦屋の文字が明白《あり/\》と読まれるのであつた。
 盛な歓楽の声は二階に湧上つて、屋外《そと》に居る二人の心に一層の不愉快と寂寥《さびしさ》とを添へた。丁度人々は酒宴《さかもり》の最中。灯影《ほかげ》花やかに映つて歌舞の巷《ちまた》とは知れた。三味《しやみ》は幾挺かおもしろい音《ね》を合せて、障子に響いて媚《こ》びるやうに聞える。急に勇しい太鼓も入つた。時々唄に交つて叫ぶやうに聞えるは、囃方《はやしかた》の娘の声であらう。これも亦《また》、招《よ》ばれて行く妓《こ》と見え、箱屋一人連れ、褄《つま》高く取つて、いそ/\と二人の前を通過ぎた。
 客の笑声は手に取るやうに聞えた。其中には校長や郡視学の声も聞えた。人々は飲んだり食つたりして時の移るのも知らないやうな様子。
『瀬川君、大層陽気ぢやないか。』と敬之進は声を潜《ひそ》めて、『や、大一座《おほいちざ》だ。一体|今宵《こんや》は何があるんだらう。』
『まだ風間さんには解らないんですか。』と丑松も聞耳を立て乍ら言つた。
『解らないさ。だつて我輩は何《なん》にも知らないんだもの。』
『ホラ、校長先生の御祝でさあね。』
『むゝ――むゝ――むゝ、左様《さう》ですかい。』
 一曲の唄が済んで、盛な拍手が起つた。また盃の交換《やりとり》が始つたらしい。若い女の声で、『姉さん、お銚子』などと呼び騒ぐのを聞捨てゝ、丑松敬之進の二人は三浦屋の側《わき》を横ぎつた。
 車は知らない中に前《さき》へ行つて了つた。次第に歌舞の巷を離れると、太鼓の音も遠く聞えなくなる。敬之進は嘆息したり、沈吟したりして、時々絶望した人のやうに唐突《だしぬけ》に大きな声を出して笑つた。『浮世《ふせい》夢のごとし』――それに勝手な節を付けて、低声に長く吟じた時は、聞いて居る丑松も沈んで了つて、妙に悲しいやうな、可痛《いたま》しいやうな心地《こゝろもち》になつた。
『吟声|調《てう》を成さず――あゝ、あゝ、折角《せつかく》の酒も醒めて了つた。』
 と敬之進は嘆息して、獣の呻吟《うな》るやうな声を出し乍ら歩く。丑松も憐んで、軈て斯う尋ねて見た。
『風間さん、貴方は何処迄行くんですか。』
『我輩かね。我輩は君を送つて、蓮華寺の門前まで行くのさ。』
『門前迄?』
『何故《なぜ》我輩が門前迄送つて行くのか、其は君には解るまい。しかし其を今君に説明しようとも思はないのさ。御互ひに長く顔を見合せて居ても、斯うして親《ちか》しくするのは昨今だ。まあ、いつか一度、君とゆつくり話して見たいもんだねえ。』
 やがて蓮華寺の山門の前まで来ると、ぷいと敬之進は別れて行つて了つた。奥様は蔵裏《くり》の外まで出迎へて喜ぶ。車はもうとつくに。荷物は寺男の庄太が二階の部屋へ持運んで呉れた。台所で焼く魚のにほひは、蔵裏迄も通つて来て、香の煙に交つて、住慣《すみな》れない丑松の心に一種異様の感想《かんじ》を与へる。仏に物を供へる為か、本堂の方へ通ふ子坊主もあつた。二階の部屋も窓の障子も新しく張替へて、前に見たよりはずつと心地《こゝろもち》が好い。薬湯と言つて、大根の乾葉《ひば》を入れた風呂なども立てゝ呉れる。新しい膳に向つて、うまさうな味噌汁の香《にほひ》を嗅いで見た時は、第一この寂しげな精舎《しやうじや》の古壁の内に意外な家庭の温暖《あたゝかさ》を看付《みつ》けたのであつた。


   第参章

       (一)

 もとより銀之助は丑松の素性を知る筈がない。二人は長野の師範校に居る頃から、極く好く気性の合つた友達で、丑松が佐久小県《さくちひさがた》あたりの灰色の景色を説き出すと、銀之助は諏訪湖《すはこ》の畔《ほとり》の生れ故郷の物語を始める、丑松が好きな歴史の話をすれば、銀之助は植物採集の興味を、と言つたやうな風に、互ひに語り合つた寄宿舎の窓は二人の心を結びつけた。同窓の記憶はいつまでも若く青々として居る。銀之助は丑松のことを思ふ度に昔を思出して、何となく時の変遷《うつりかはり》を忍ばずには居られなかつた。同じ寄宿舎の食堂に同じ引割飯の香《にほひ》を嗅いだ其友達に思ひ比べると、実に丑松の様子の変つて来たことは。あの憂欝《いううつ》――丑松が以前の快活な性質を失つた証拠は、眼付で解る、歩き方で解る、談話《はなし》をする声でも解る。一体、何が原因《もと》で、あんなに深く沈んで行くのだらう。とんと銀之助には合点が行かない。『何かある――必ず何か訳がある。』斯う考へて、どうかして友達に忠告したいと思ふのであつた。
 丑松が蓮華寺へ引越した翌日《あくるひ》、丁度日曜、午後から銀之助は尋ねて行つた。途中で文平と一緒になつて、二人して苔蒸《こけむ》した石の階段を上ると、咲残る秋草の径《みち》の突当つたところに本堂、左は鐘楼、右が蔵裏であつた。六角形に出来た経堂の建築物《たてもの》もあつて、勾配のついた瓦屋根や、大陸風の柱や、白壁や、すべて過去の壮大と衰頽《すゐたい》とを語るかのやうに見える。黄ばんだ銀杏《いてふ》の樹の下に腰を曲《こゞ》め乍ら、余念もなく落葉を掃いて居たのは、寺男の庄太。『瀬川君は居りますか。』と言はれて、馬鹿丁寧な挨拶。やがて庄太は箒《はうき》をそこに打捨てゝ置いて、跣足《すあし》の儘《まゝ》で蔵裏の方へ見に行つた。
 急に丑松の声がした。あふむいて見ると、銀杏《いてふ》に近い二階の窓の障子を開けて、顔を差出して呼ぶのであつた。
『まあ、上りたまへ。』
 と復た呼んだ。

       (二)

 銀之助文平の二人は丑松に導かれて暗い楼梯《はしごだん》を上つて行つた。秋の日は銀杏の葉を通して、部屋の内へ射しこんで居たので、変色した壁紙、掛けてある軸、床の間に置並べた書物《ほん》と雑誌の類《たぐひ》まで、すべて黄に反射して見える。冷々《ひや/″\》とした空気は窓から入つて来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽《さはやか》な思を送るのであつた。机の上には例の『懴悔録』、読伏せて置いた其本に気がついたと見え、急に丑松は片隅へ押隠すやうにして、白い毛布を座蒲団がはりに出して薦《すゝ》めた。
『よく君は引越して歩く人さ。』と銀之助は身辺《あたり》を眺め廻し乍ら言つた。『一度瀬川君のやうに引越す癖が着くと、何度でも引越したくなるものと見える。まあ、部屋の具合なぞは、先の下宿の方が好ささうぢやないか。』
『何故《なぜ》御引越になつたんですか。』と文平も尋ねて見る。
『どうも彼処《あそこ》の家《うち》は喧《やかま》しくつて――』斯《か》う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色《けしき》はもう顔に表れたのである。
『そりやあ寺の方が静は静だ。』と銀之助は一向頓着なく、『何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出《おひだ》されたさうだねえ。』
『さう/\、左様《さう》いふ話ですなあ。』と文平も相槌《あひづち》を打つた。
『だから僕は斯う思つたのさ。』と銀之助は引取つて、『何か其様《そん》な一寸したつまらん事にでも感じて、それで彼《あの》下宿が嫌に成つたんぢやないかと。』
『どうして?』と丑松は問ひ反した。
『そこがそれ、君と僕と違ふところさ。』と銀之助は笑ひ乍ら、『実は此頃《こなひだ》或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居《すまひ》の側《わき》に猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳《あたま》の人になると、捨てられた猫を見たのが移転《ひつこし》の動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君の様子を見るのに、何処か身体の具合でも悪いやうだ。まあ、君は左様《さう》は思はないかね。だから穢多の逐出《おひだ》された話を聞くと、直に僕は彼《あ》の猫のことを思出したのさ。それで君が引越したくなつたのかと思つたのさ。』
『馬鹿なことを言ひたまへ。』と丑松は反返《そりかへ》つて笑つた。笑ふには笑つたが、然しそれは可笑《をかし》くて笑つたやうにも聞えなかつたのである。
『いや、戯言《じようだん》ぢやない。』と銀之助は丑松の顔を熟視《みまも》つた。『実際、君の顔色は好くない――診《み》て貰つては奈何《どう》かね。』
『僕は君、其様《そん》な病人ぢや無いよ。』と丑松は微笑《ほゝゑ》み乍ら答へた。
『しかし。』と銀之助は真面目《まじめ》になつて、『自分で知らないで居る病人はいくらも有る。君の身体は変調を来して居るに相違ない。夜寝られないなんて言ふところを見ても、どうしても生理的に異常がある――まあ僕は左様《さう》見た。』
『左様《さう》かねえ、左様見えるかねえ。』
『見えるともサ。妄想《まうさう》、妄想――今の患者の眼に映つた猫も、君の眼に映つた新平民も、皆《みん》な衰弱した神経の見せる幻像《まぼろし》さ。猫が捨てられたつて何だ――下らない。穢多が逐出《おひだ》されたつて何だ――当然《あたりまへ》ぢや無いか。』
『だから土屋君は困るよ。』と丑松は対手《あひて》の言葉を遮《さへぎ》つた。『何時《いつ》でも君は早呑込だ。自分で斯うだと決めて了ふと、もう他の事は耳に入らないんだから。』
『すこし左様《さう》いふ気味も有ますなあ。』と文平は如才なく。
『だつて引越し方があんまり唐突《だしぬけ》だからさ。』と言つて、銀之助は気を変へて、『しかし、寺の方が反つて勉強は出来るだらう。』
『以前《まへ》から僕は寺の生活といふものに興味を持つて居た。』と丑松は言出した。丁度下女の袈裟治《けさぢ》(北信に多くある女の名)が湯沸《ゆわかし》を持つて入つて来た。

       (三)

 信州人ほど茶を嗜《たしな》む手合も鮮少《すくな》からう。斯《か》ういふ飲料《のみもの》を好むのは寒い山国に住む人々の性来の特色で、日に四五回づゝ集つて飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張《やはり》茶好の仲間には泄《も》れなかつた。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も
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