態度を示した。
『あツ、其様《そん》なことを聞かせて奈何《どう》する。』
 と丑松は周章《あわ》てゝ取縋《とりすが》らうとして――不図《ふと》、眼が覚めたのである。
 夢であつた。斯う我に帰ると同時に、苦痛《くるしみ》は身を離れた。しかし夢の裡《なか》の印象は尚残つて、覚めた後までも恐怖《おそれ》の心が退かない。室内を眺め廻すと、お志保も居なければ、文平も居なかつた。丁度そこへ風呂敷包を擁《かゝ》へ乍ら、戸を開けて入つて来たのは銀之助であつた。
『や、どうも大変遅くなつた。瀬川君、まだ君は起きて居たのかい――まあ、今夜は寝て話さう。』
 斯う声を掛ける。軈《やが》て銀之助はがた/\靴の音をさせ乍《なが》ら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、襟《カラ》を取つて机の上に置くやら、または無造作にズボン釣を外すやらして、『あゝ、其内に御別れだ。』と投げるやうに言つた。八畳ばかり畳の敷いてあるは、克く二人の友達が枕を並べて、当番の夜を語り明したところ。今は銀之助も名残惜《なごりを》しいやうな気に成つて、着た儘の襯衣《シャツ》とズボン下とを寝衣《ねまき》がはりに、宿直の蒲団の中へ笑ひ乍ら潜り込んだ。
『斯《か》うして君と是部屋に寝るのも、最早《もう》今夜|限《ぎ》りだ。』と銀之助は思出したやうに嘆息した。『僕に取つては是《これ》が最終の宿直だ。』
『左様《さう》かなあ、最早御別れかなあ。』と丑松も枕に就き乍ら言つた。
『何となく斯《か》う今夜は師範校の寄宿舎にでも居るやうな気がする。妙に僕は昔を懐出《おもひだ》した――ホラ、君と一緒に勉強した彼の時代のことなぞを。噫《あゝ》、昔の友達は皆な奈何して居るかなあ。』と言つて、銀之助はすこし気を変へて、『其は左様と、瀬川君、此頃《こなひだ》から僕は君に聞いて見たいと思ふことが有るんだが――』
『僕に?』
『まあ、君のやうに左様黙つて居るといふのも損な性分だ。どうも君の様子を見るのに、何か非常に苦しい事が有つて、独りで考へて独りで煩悶《はんもん》して居る、としか思はれない。そりやあもう君が言はなくたつて知れるよ。実際、僕は君の為に心配して居るんだからね。だからさ、其様《そんな》に苦しいことが有るものなら、少許《すこし》打開けて話したらば奈何《どう》だい。随分、友達として、力に成るといふことも有らうぢやないか。』

       (三)

『何故《なぜ》、君は左様《さう》だらう。』と銀之助は同情《おもひやり》の深い言葉を続けた。『僕が斯《か》ういふ科学書生で、平素《しよつちゆう》其方《そつち》の研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢや無いよ。他《ひと》の手疵《てきず》を負つて苦んで居るのを、傍《はた》で観て嘲笑《わら》つてるやうな、其様《そん》な残酷な人間ぢや無いよ。』
『君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものは無いのに。』と丑松は臥俯《うつぶし》になつて答へる。
『そんなら僕にだつて話して聞かせて呉れ給へな。』
『話せとは?』
『何も左様君のやうに蔵《つゝ》んで居る必要は有るまいと思ふんだ。言はないから、其で君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、此頃に成つて大に悟つたことが有る。それからずつと君の心情《こゝろもち》も解るやうに成つた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故《なぜ》君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る。』
 丑松は答へなかつた。銀之助は猶《なほ》言葉を継《つ》いで、
『校長先生なぞに言はせると、斯ういふことは三文の価値《ねうち》も無いね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時も有つたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越して置き乍ら、吾儕《われ/\》にばかり裃《かみしも》を着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、左様《さう》ぢや無いか。だから僕は言つて遣《や》つたよ。今日|彼《あの》先生と郡視学とで僕を呼付けて、「何故《なぜ》瀬川君は彼様《あゝ》考へ込んで居るんだらう」と斯う聞くから、「其は貴方等《あなたがた》も覚えが有るでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ。』
『フウ、左様かねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ。』
『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。』
『誤解されるとは?』
『まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。』
『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。』
 長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈《ランプ》の光は天井へ射して、円く朦朧《もうろう》と映つて居る。銀之助は其を熟視《みつ》め乍ら、種々《いろ/\》空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、終《しまひ》には友達は最早《もう》眠つたのかとも考へた。
『瀬川君、最早|睡《ね》たのかい。』と声を掛けて見る。
『いゝや――未《ま》だ起きてる。』
 丑松は息を殺して寝床の上に慄《ふる》へて居たのである。
『妙に今夜は眠られない。』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀《かなしみ》といふことを考へると、毎時《いつも》君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様《さう》あるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍《かげなが》ら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様《こん》なことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六《むづ》ヶ|敷《しく》考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、斯《か》う為たら奈何《どう》だらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。』
『あゝ、左様《さう》言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有《ありがた》い。』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――』
『ふむ。』
『君はまだ克《よ》く事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んで了《しま》つたんだよ。』
 復《ま》た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。

       (四)

 銀之助の送別会は翌日《あくるひ》の午前から午後の二時頃迄へ掛けて開らかれた。昼を中へ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだは、弁当がはりに鮨《すし》の折詰を出したからで。教員生徒はかはる/″\立つて別離《わかれ》の言葉を述べた。余興も幾組かあつた。多くの無邪気な男女《をとこをんな》の少年は、互ひに悲んだり笑つたりして、稚心《をさなごゝろ》にも斯の日を忘れまいとするのであつた。
 斯《か》ういふ中にも、独り丑松ばかりは気が気で無い。何を見たか、何を聞いたか、殆《ほとん》ど其が記憶にも留らなかつた。唯|頭脳《あたま》の中に残るものは、教員や生徒の騒しい笑声、余興のある度に起る拍手の音、または斯の混雑の中にも時々意味有げな様子して盗むやうに自分の方を見る人々の眼付――まあ、絶えず誰かに附狙《つけねら》はれて居るやうな気がして、其方の心配と屈託と恐怖《おそれ》とで、見たり聞いたりすることには何の興味も好奇心も起らないのであつた。どうかすると丑松は自分の身体ですら自分のものゝやうには思はないで、何もかも忘れて、心一つに父の戒を憶出して見ることもあつた。『見給へ、土屋君は必定《きつと》出世するから。』斯う私語《さゝや》き合ふ教員同志の声が耳に入るにつけても、丑松は自分の暗い未来に思比べて、すくなくも穢多なぞには生れて来なかつた友達の身の上を羨んだ。
 送別会が済《す》む、直に丑松は学校を出て、急いで蓮華寺を指して帰つて行つた。蔵裏《くり》の入口の庭のところに立つて、奥座敷の方を眺めると、白衣を着けた一人の尼が出たり入つたりして居る。一昨日の晩頼まれて書いた手紙のことを考へると、彼が奥様の妹といふ人であらうか、と斯《か》う推測が付く。其時下女の袈裟治が台処の方から駈寄つて、丑松に一枚の名刺を渡した。見れば猪子蓮太郎としてある。袈裟治は言葉を添へて、今朝|斯《こ》の客が尋ねて来たこと、宿は上町の扇屋にとつたとのこと、宜敷《よろしく》と言置いて出て行つたことなぞを話して、まだ外にでつぷり肥つた洋服姿の人も表に立つて居たと話した。『むゝ、必定《きつと》市村さんだ。』と丑松は独語《ひとりご》ちた。話の様子では確かに其らしいのである。
『直に、これから尋ねて行つて見ようかしら。』とは続いて起つて来た思想《かんがへ》であつた。人目を憚《はゞか》るといふことさへなくば、無論尋ねて行きたかつたのである。鳥のやうに飛んで行きたかつたのである。『まあ、待て。』と丑松は自分で自分を制止《おしとゞ》めた。彼の先輩と自分との間には何か深い特別の関係でも有るやうに見られたら、奈何しよう。書いたものを愛読してさへ、既に怪しいと思はれて居るではないか。まして、うつかり尋ねて行つたりなんかして――もしや――あゝ、待て、待て、日の暮れる迄待て。暗くなつてから、人知れず宿屋へ逢ひに行かう。斯う用心深く考へた。
『それは左様と、お志保さんは奈何《どう》したらう。』と其人の身の上を気遣《きづか》ひ乍ら、丑松は二階へ上つて行つた。始めて是寺へ引越して来た当時のことは、不図《ふと》、胸に浮ぶ。見れば何もかも変らずにある。古びた火鉢も、粗末な懸物も、机も、本箱も。其に比べると人の境涯《きやうがい》の頼み難いことは。丑松はあの鷹匠《たかしやう》町の下宿から放逐された不幸な大日向を思出した。丁度斯の蓮華寺から帰つて行つた時は、提灯《ちやうちん》の光に宵闇の道を照し乍ら、一挺の籠が舁《かつ》がれて出るところであつたことを思出した。附添の大男を思出した。門口で『御機嫌よう』と言つた主婦を思出した。罵《のゝし》つたり騒いだりした下宿の人々を思出した。終《しまひ》にはあの『ざまあ見やがれ』の一言を思出すと、慄然《ぞつ》とする冷《つめた》い震動《みぶるひ》が頸窩《ぼんのくぼ》から背骨の髄へかけて流れ下るやうに感ぜられる。今は他事《ひとごと》とも思はれない。噫《あゝ》、丁度それは自分の運命だ。何故、新平民ばかり其様《そんな》に卑《いやし》められたり辱《はづかし》められたりするのであらう。何故、新平民ばかり普通の人間の仲間入が出来ないのであらう。何故、新平民ばかり斯の社会に生きながらへる権利が無いのであらう――人生は無慈悲な、残酷なものだ。
 斯う考へて、部屋の内を歩いて居ると、唐紙の開く音がした。其時奥様が入つて来た。

       (五)

 いかにも落胆《がつかり》したやうな様子し乍ら、奥様は丑松の前に座《すわ》つた。『斯様《こん》なことになりやしないか、と思つて私も心配して居たんです。』と前置をして、さて奥様は昨宵《ゆうべ》の出来事を丑松に話した。聞いて見ると、お志保は郵便を出すと言つて、日暮頃に門を出たつきり、もう帰つて来ないとのこと。箪笥《たんす》の上に載せて置いて行つた手紙は奥様へ宛てたもので――それは真心籠めて話をするやうに書いてあつた、ところ/″\涙に染《にじ》んで読めない文字すらもあつたとのこと。其中には、自分一人の為に種々《さま/″
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