いて居るのであつた。
『だつて君、いづれ何か原因が有るだらうぢやないか。』と文平は飽《あ》く迄《まで》も皮肉に出る。
『原因とは?』丑松は肩を動《ゆす》り乍ら言つた。
『ぢやあ、斯《か》う言つたら好からう。』と文平は真面目に成つて、『譬《たと》へば――まあ僕は例を引くから聞き給へ。こゝに一人の男が有るとしたまへ。其男が発狂して居るとしたまへ。普通《なみ》のものが其様な発狂者を見たつて、それほど深い同情は起らないね。起らない筈《はず》さ、別に是方《こちら》に心を傷《いた》めることが無いのだもの。』
『むゝ、面白い。』と銀之助は文平と丑松の顔を見比べた。
『ところが、若《も》しこゝに酷《ひど》く苦んだり考へたりして居る人があつて、其人が今の発狂者を見たとしたまへ。さあ、思ひつめた可傷《いたま》しい光景《ありさま》も目に着くし、絶望の為に痩せた体格も目に着くし、日影に悄然《しよんぼり》として死といふことを考へて居るやうな顔付も目に着く。といふは外でも無い。発狂者を思ひやる丈《だけ》の苦痛《くるしみ》が矢張|是方《こちら》にあるからだ。其処だ。瀬川君が人生問題なぞを考へて、猪子先生の苦んで居る光景《ありさま》に目が着くといふのは、何か瀬川君の方にも深く心を傷めることが有るからぢや無からうか。』
『無論だ。』と銀之助は引取つて言つた。『其が無ければ、第一読んで見たつて解りやしない。其だあね、僕が以前《まへ》から瀬川君に言つてるのは。尤も瀬川君が其を言へないのは、僕は百も承知だがね。』
『何故《なぜ》、言へないんだらう。』と文平は意味ありげに尋ねて見る。
『そこが持つて生れた性分サ。』と銀之助は何か思出したやうに、『瀬川君といふ人は昔から斯うだ。僕なぞはもうずん/\暴露《さらけだ》して、蔵《しま》つて置くといふことは出来ないがなあ。瀬川君の言はないのは、何も隠す積りで言はないのぢや無い、性分で言へないのだ。はゝゝゝゝ、御気の毒な訳さねえ――苦むやうに生れて来たんだから仕方が無い。』
 斯う言つたので、聞いて居る人々は意味も無く笑出した。暫時《しばらく》準教員も写生の筆を休《や》めて眺めた。尋常一年の教師は又、丑松の背後《うしろ》へ廻つて、眼を細くして、密《そつ》と臭気《にほひ》を嗅《か》いで見るやうな真似をした。
『実は――』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら、『ある処から猪子先生の書いたものを借りて来て、僕も読んで見た。一体、彼《あ》の先生は奈何《どう》いふ種類の人だらう。』
『奈何いふ種類とは?』と銀之助は戯れるやうに。
『哲学者でもなし、教育家でもなし、宗教家でもなし――左様かと言つて、普通の文学者とも思はれない。』
『先生は新しい思想家さ。』銀之助の答は斯うであつた。
『思想家?』と文平は嘲《あざけ》つたやうに、『ふゝ、僕に言はせると、空想家だ、夢想家だ――まあ、一種の狂人《きちがひ》だ。』
 其調子がいかにも可笑《をか》しかつた。盛んな笑声が復《ま》た聞いて居る教師の間に起つた。銀之助も一緒に成つて笑つた。其時、憤慨の情は丑松が全身の血潮に交つて、一時に頭脳《あたま》の方へ衝きかゝるかのやう。蒼《あを》ざめて居た頬は遽然《にはかに》熱して来て、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》も耳も紅《あか》く成つた。

       (五)

『むゝ、勝野君は巧いことを言つた。』と斯う丑松は言出した。『彼《あ》の猪子先生なぞは、全く君の言ふ通り、一種の狂人《きちがひ》さ。だつて、君、左様《さう》ぢやないか――世間体の好いやうな、自分で自分に諂諛《へつら》ふやうなことばかり並べて、其を自伝と言つて他《ひと》に吹聴《ふいちやう》するといふ今の世の中に、狂人《きちがひ》ででも無くて誰が冷汗の出るやうな懴悔なぞを書かう。彼の先生の手から職業を奪取《うばひと》つたのも、彼様いふ病気に成る程の苦痛《くるしみ》を嘗《な》めさせたのも、畢竟《つまり》斯《こ》の社会だ。其社会の為に涙を流して、満腔《まんかう》の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛《たゞ》れる迄も思ひ焦《こが》れて居るなんて――斯様《こん》な大白痴《おほたはけ》が世の中に有らうか。はゝゝゝゝ。先生の生涯は実に懴悔の生涯《しやうがい》さ。空想家と言はれたり、夢想家と言はれたりして、甘んじて其冷笑を受けて居る程の懴悔の生涯さ。「奈何《どん》な苦しい悲しいことが有らうと、其を女々しく訴へるやうなものは大丈夫と言はれない。世間の人の睨《にら》む通りに睨ませて置いて、黙つて狼のやうに男らしく死ね。」――其が先生の主義なんだ。見給へ、まあ其主義からして、もう狂人染《きちがひじ》みてるぢやないか。はゝゝゝゝ。』
『君は左様激するから不可《いかん》。』と銀之助は丑松を慰撫《なだめ》るやうに言つた。
『否《いや》、僕は決して激しては居ない。』斯《か》う丑松は答へた。
『しかし。』と文平は冷笑《あざわら》つて、『猪子蓮太郎だなんて言つたつて、高が穢多ぢやないか。』
『それが、君、奈何した。』と丑松は突込んだ。
『彼様《あん》な下等人種の中から碌《ろく》なものゝ出よう筈が無いさ。』
『下等人種?』
『卑劣《いや》しい根性を持つて、可厭《いや》に癖《ひが》んだやうなことばかり言ふものが、下等人種で無くて君、何だらう。下手に社会へ突出《でしやば》らうなんて、其様な思想《かんがへ》を起すのは、第一大間違さ。獣皮《かは》いぢりでもして、神妙《しんべう》に引込んでるのが、丁度彼の先生なぞには適当して居るんだ。』
『はゝゝゝゝ。して見ると、勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言ふのだね。はゝゝゝゝ。僕は今迄、君も彼の先生も、同じ人間だとばかり思つて居た。』
『止せ。止せ。』と銀之助は叱るやうにして、『其様な議論を為たつて、つまらんぢやないか。』
『いや、つまらなかない。』と丑松は聞入れなかつた。『僕は君、是《これ》でも真面目《まじめ》なんだよ。まあ、聞き給へ――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言はれたが、実際御説の通りだ。こりや僕の方が勘違ひをして居た。左様だ、彼の先生も御説の通りに獣皮《かは》いぢりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさへして黙つて居れば、彼様な病気なぞに罹《かゝ》りはしなかつたのだ。その身体のことも忘れて了つて、一日も休まずに社会と戦つて居るなんて――何といふ狂人《きちがひ》の態《ざま》だらう。噫《あゝ》、開化した高尚な人は、予《あらかじ》め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事して居る。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞは其様な成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいぢやないか、勇しいぢやないか。』
 と丑松は上歯を顕《あらは》して、大きく口を開いて、身を慄《ふる》はせ乍ら欷咽《すゝりな》くやうに笑つた。欝勃《うつぼつ》とした精神は体躯《からだ》の外部《そと》へ満ち溢《あふ》れて、額は光り、頬の肉も震へ、憤怒と苦痛とで紅く成つた時は、其の粗野な沈欝な容貌が平素《いつも》よりも一層《もつと》男性《をとこ》らしく見える。銀之助は不思議さうに友達の顔を眺めて、久し振で若く剛《つよ》く活々とした丑松の内部《なか》の生命《いのち》に触れるやうな心地《こゝろもち》がした。
 対手が黙つて了《しま》つたので、丑松もそれぎり斯様《こん》な話をしなかつた。文平はまた何時までも心の激昂を制《おさ》へきれないといふ様子。頭ごなしに罵《のゝし》らうとして、反《かへ》つて丑松の為に言敗《いひまく》られた気味が有るので、軽蔑《けいべつ》と憎悪《にくしみ》とは猶更《なほさら》容貌の上に表れる。『何だ――この穢多めが』とは其の怒気《いかり》を帯びた眼が言つた。軈て文平は尋常一年の教師を窓の方へ連れて行つて、
『奈何《どう》だい、君、今の談話《はなし》は――瀬川君は最早《もう》悉皆《すつかり》自分で自分の秘密を自白したぢやないか。』
 斯《か》う私語《さゝや》いて聞かせたのである。
 丁度準教員は鉛筆写生を終つた。人々はいづれも其|周囲《まはり》へ集つた。


   第拾九章

       (一)

 この大雪を衝《つ》いて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふ噂《うはさ》は学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、斯《こ》の風説に驚かされて、今更のやうに防禦《ばうぎよ》を始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞが頻《しきり》に行はれる。壮士の一群《ひとむれ》は高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘《あらそひ》は次第に近いて来たのである。
 其日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることに成つた。尤《もつと》も銀之助は拠《よんどころ》ない用事が有ると言つて出て行つて、日暮になつても未だ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つて置いた。丑松は絶えず不安の状態《ありさま》――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたり悶《もだ》えたりしたのである。冬の一日《ひとひ》は斯ういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相《いりあひ》を告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓《ガラスまど》に響いて聞える頃は、殊《こと》に烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早《もう》解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身として其を黙つて視て居ることが出来ようか。と言つて、奈何《どう》して彼の継母のところなぞへ帰つて行かれよう。
『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』
 と不図《ふと》斯ういふことを想ひ着いた時は、言ふに言はれぬ哀傷《かなしみ》が身を襲《おそ》ふやうに感ぜられた。
 待つても、待つても、銀之助は帰つて来なかつた。長い間丑松は机に倚凭《よりかゝ》つて、洋燈《ランプ》の下《もと》にお志保のことを思浮べて居た。斯うして種々《さま/″\》の想像に耽《ふけ》り乍ら、悄然《しよんぼり》と五分心の火を熟視《みつ》めて居るうちに、何時の間にか疲労《つかれ》が出た。丑松は机に倚凭つた儘《まゝ》、思はず知らずそこへ寝《ね》て了《しま》つたのである。
 其時、お志保が入つて来た。

       (二)

 こゝは学校では無いか。奈何《どう》して斯様《こん》なところへお志保が尋ねて来たらう。と丑松は不思議に考へないでもなかつた。しかし其|疑惑《うたがひ》は直に釈《と》けた。お志保は何か言ひたいことが有つて、わざ/\自分のところへ逢ひに来たのだ、と斯う気が着いた。あの夢見るやうな、柔嫩《やはらか》な眼――其を眺めると、お志保が言はうと思ふことはあり/\と読まれる。何故、父や弟にばかり親切にして、自分には左様《さう》疎々《よそ/\》しいのであらう。何故、同じ屋根の下に住む程の心やすだては有乍ら、優しい言葉の一つも懸けて呉れないのであらう。何故、其|口唇《くちびる》は言ひたいことも言はないで、堅く閉《と》ぢ塞《ふさが》つて、恐怖《おそれ》と苦痛《くるしみ》とで慄へて居るのであらう。
 斯ういふ楽しい問は、とは言へ、長く継《つゞ》かなかつた。何時の間にか文平が入つて来て、用事ありげにお志保を促《うなが》した。終《しまひ》には羞《はづか》しがるお志保の手を執《と》つて、無理やりに引立てゝ行かうとする。
『勝野君、まあ待ち給へ。左様《さう》君のやうに無理なことを為《し》なくツても好からう。』
 と言つて、丑松は制止《おしとゞ》めるやうにした。其時、文平も丑松の方を振返つて見た。二人の目は電光《いなづま》のやうに出逢《であ》つた。
『お志保さん、貴方《あなた》に好事《いゝこと》を教へてあげる。』
 と文平は女の耳の側へ口を寄せて、丑松が隠蔽《かく》して居る其恐しい秘密を私語《さゝや》いて聞かせるやうな
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