には種々《いろ/\》議論も有つたがね、要するに瀬川君の態度が頗《すこぶ》る怪しい、といふのがそも/\始りさ。吾儕《われ/\》の中に新平民が居るなんて言触らされて見給へ。誰だつて憤慨するのは至当《あたりまへ》ぢやないか。君始め左様だらう。一体、世間で其様なことを言触らすといふのが既にもう吾儕職員を侮辱してるんだ。だからさ、若し瀬川君に疚《やま》しいところが無いものなら、吾儕と一緒に成つて怒りさうなものぢやないか。まあ、何とか言ふべきだ。それも言はないで、彼様《あゝ》して黙つて居るところを見ると、奈何《どう》しても隠して居るとしか思はれない。斯う言出したものが有る。すると、また一人が言ふには――』と言ひかけて、軈《やが》て思付いたやうに、『しかし、まあ、止さう。』
『何だ、言ひかけて止すやつが有るもんか。』と背の高い尋常一年の教師が横鎗《よこやり》を入れる。
『やるべし、やるべし。』と冷笑の語気を帯びて言つたのは、文平であつた。文平は準教員の背後《うしろ》に立つて、巻煙草を燻《ふか》し乍ら聞いて居たのである。
『しかし、戯語《じようだん》ぢや無いよ。』と言ふ銀之助の眼は輝いて来た。『僕なぞは師範校時代から交際《つきあ》つて、能く人物を知つて居る。彼《あ》の瀬川君が新平民だなんて、其様《そん》なことが有つて堪るものか。一体誰が言出したんだか知らないが、若《も》し世間に其様な風評が立つやうなら、飽迄《あくまで》も僕は弁護して遣らなけりやならん。だつて、君、考へて見給へ。こりや真面目《まじめ》な問題だよ――茶を飲むやうな尋常《あたりまへ》な事とは些少《すこし》訳が違ふよ。』
『無論さ。』と準教員は答へた。『だから吾儕《われ/\》も頭を痛めて居るのさ。まあ、聞き給へ。ある人は又た斯ういふことを言出した。瀬川君に穢多の話を持掛けると、必ず話頭《はなし》を他《わき》へ転《そら》して了ふ。いや、転して了ふばかりぢや無い、直に顔色を変へるから不思議だ――其顔色と言つたら、迷惑なやうな、周章《あわ》てたやうな、まあ何ともかとも言ひやうが無い。それそこが可笑《をか》しいぢやないか。吾儕と一緒に成つて、「むゝ、調里坊《てうりツぱう》かあ」とかなんとか言ふやうだと、誰も何とも思やしないんだけれど。』
『そんなら、君、あの瀬川丑松といふ男に何処《どこ》か穢多らしい特色が有るかい。先づ、其からして聞かう。』と銀之助は肩を動《ゆす》つた。
『なにしろ近頃非常に沈んで居られるのは事実だ。』と尋常四年の教師は、腮《あご》の薄鬚《うすひげ》を掻上げ乍ら言ふ。
『沈んで居る?』と銀之助は聞咎《きゝとが》めて、『沈んで居るのは彼男《あのをとこ》の性質さ。それだから新平民だとは無論言はれない。新平民でなくたつて、沈欝《ちんうつ》な男はいくらも世間にあるからね。』
『穢多には一種特別な臭気《にほひ》が有ると言ふぢやないか――嗅いで見たら解るだらう。』と尋常一年の教師は混返《まぜかへ》すやうにして笑つた。
『馬鹿なことを言給へ。』と銀之助も笑つて、『僕だつていくらも新平民を見た。あの皮膚の色からして、普通の人間とは違つて居らあね。そりやあ、もう、新平民か新平民で無いかは容貌《かほつき》で解る。それに君、社会《よのなか》から度外《のけもの》にされて居るもんだから、性質が非常に僻《ひが》んで居るサ。まあ、新平民の中から男らしい毅然《しつかり》した青年なぞの産れやうが無い。どうして彼様《あん》な手合が学問といふ方面に頭を擡《もちあ》げられるものか。其から推《お》したつて、瀬川君のことは解りさうなものぢやないか。』
『土屋君、そんなら彼《あ》の猪子蓮太郎といふ先生は奈何《どう》したものだ。』と文平は嘲《あざけ》るやうに言つた。
『ナニ、猪子蓮太郎?』と銀之助は言淀《いひよど》んで、『彼《あ》の先生は――彼《あれ》は例外さ。』
『それ見給へ。そんなら瀬川君だつても例外だらう――はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
 と準教員は手を拍《う》つて笑つた。聞いて居る教員|等《たち》も一緒になつて笑はずには居られなかつたのである。
 其時、斯の職員室の戸を開けて入つて来たのは、丑松であつた。急に一同口を噤《つぐ》んで了《しま》つた。人々の視線は皆な丑松の方へ注ぎ集つた。
『瀬川君、奈何《どう》ですか、御病気は――』
 と文平は意味ありげに尋ねる。其調子がいかにも皮肉に聞えたので、準教員は傍に居る尋常一年の教師と顔を見合せて、思はず互に微笑《ほゝゑみ》を泄《もら》した。
『難有《ありがた》う。』と丑松は何気なく、『もうすつかり快《よ》くなりました。』
『風邪《かぜ》ですか。』と尋常四年の教師が沈着《おちつ》き澄まして言つた。
『はあ――ナニ、差《たい》したことでも無かつたんです。』と答へて、丑松は気を変へて、『時に、勝野君、生憎《あいにく》今日は生徒が集まらなくて困つた。斯《こ》の様子では土屋君の送別会も出来さうも無い。折角|準備《したく》したのにツて、出て来た生徒は張合の無いやうな顔してる。』
『なにしろ是雪《このゆき》だからねえ。』と文平は微笑んで、『仕方が無い、延ばすサ。』
 斯《か》ういふ話をして居るところへ、小使がやつて来た。銀之助は丑松の方にばかり気を取られて、小使の言ふことも耳へ入らない。それと見た体操の教師は軽く銀之助の肩を叩いて、
『土屋君、土屋君――校長先生が君を呼んでるよ。』
『僕を?』銀之助は始めて気が付いたのである。

       (三)

 校長は郡視学と二人で応接室に居た。銀之助が戸を開けて入つた時は、二人差向ひに椅子に腰懸けて、何か密議を凝《こら》して居るところであつた。
『おゝ、土屋君か。』と校長は身を起して、そこに在る椅子を銀之助の方へ押薦《おしすゝ》めた。『他《ほか》の事で君を呼んだのでは無いが、実は近頃世間に妙な風評が立つて――定めし其はもう君も御承知のことだらうけれど――彼様《あゝ》して町の人が左《と》や右《かく》言ふものを、黙つて見ても居られないし、第一|斯《か》ういふことが余り世間へ伝播《ひろが》ると、終《しまひ》には奈何《どん》な結果を来すかも知れない。其に就いて、茲《こゝ》に居られる郡視学さんも非常に御心配なすつて、態々《わざ/\》斯《こ》の雪に尋ねて来て下すつたんです。兎《と》に角《かく》、君は瀬川君と師範校時代から御一緒ではあり、日頃親しく往来《ゆきゝ》もして居られるやうだから、君に聞いたら是事《このこと》は一番好く解るだらう、斯う思ひましてね。』
『いえ、私だつて其様《そん》なことは解りません。』と銀之助は笑ひ乍ら答へた。『何とでも言はせて置いたら好いでせう。其様な世間で言ふやうなことを、一々気にして居たら際限《きり》が有ますまい。』
『しかし、左様いふものでは無いよ。』と校長は一寸郡視学の方を向いて見て、軈《やが》て銀之助の顔を眺め乍ら、『君等は未だ若いから、其程世間といふものに重きを置かないんだ。幼稚なやうに見えて、馬鹿にならないのは、世間さ。』
『そんなら町の人が噂《うはさ》するからと言つて、根も葉も無いやうなことを取上げるんですか。』
『それ、それだから、君等は困る。無論我輩だつて其様なことを信じないさ。しかし、君、考へて見給へ。万更《まんざら》火の気の無いところに煙の揚る筈《はず》も無からうぢやないか。いづれ是には何か疑はれるやうな理由が有つたんでせう――土屋君、まあ、君は奈何《どう》思ひます。』
『奈何しても私には左様思はれません。』
『左様言へば、其迄だが、何かそれでも思ひ当る事が有さうなものだねえ。』と言つて校長は一段声を低くして、『一体瀬川君は近頃非常に考へ込んで居られるやうだが、何が原因《もと》で彼様《あゝ》憂欝に成つたんでせう。以前は克《よ》く吾輩の家《うち》へもやつて来て呉れたツけが、此節はもう薩張《さつぱり》寄付かない。まあ吾儕《われ/\》と一緒に成つて、談《はな》したり笑つたりするやうだと、御互ひに事情も能《よ》く解るんだけれど、彼様《あゝ》して独りで考へてばかり居られるもんだから――ホラ、訳を知らないものから見ると、何かそこには後暗い事でも有るやうに、つい疑はなくても可い事まで疑ふやうに成るんだらうと思ふのサ。』
『いえ。』と銀之助は校長の言葉を遮《さへぎ》つて、『実は――其には他に深い原因が有るんです。』
『他に?』
『瀬川君は彼様いふ性質《たち》ですから、なか/\口へ出しては言ひませんがね。』
『ホウ、言はない事が奈何して君に知れる?』
『だつて、言葉で知れなくたつて、行為《おこなひ》の方で知れます。私は長く交際《つきあ》つて見て、瀬川君が種々《いろ/\》に変つて来た径路《みちすぢ》を多少知つて居ますから、奈何《どう》して彼様《あゝ》考へ込んで居るか、奈何して彼様憂欝に成つて居るか、それはもう彼の君の為《す》ることを見ると、自然と私の胸には感じることが有るんです。』
 斯《か》ういふ銀之助の言葉は深く対手の注意を惹いた。校長と郡視学の二人は巻煙草を燻《ふか》し乍ら、奈何《どう》銀之助が言出すかと、黙つて其話を待つて居たのである。
 銀之助に言はせると、丑松が憂欝に沈んで居るのは世間で噂《うはさ》するやうなことゝ全く関係の無い――実は、青年の時代には誰しも有勝ちな、其胸の苦痛《くるしみ》に烈しく悩まされて居るからで。意中の人が敬之進の娘といふことは、正に見当が付いて居る。しかし、丑松は彼様いふ気象の男であるから、其を友達に話さないのみか、相手の女にすらも話さないらしい。それそこが性分で、熟《じつ》と黙つて堪《こら》へて居て、唯敬之進とか省吾とか女の親兄弟に当る人々の為に種々《さま/″\》なことを為《し》て遣《や》つて居る――まあ、言はないものは、せめて尽して、それで心を慰めるのであらう。思へば人の知らない悲哀《かなしみ》を胸に湛へて居るのに相違ない。尤《もつと》も、自分は偶然なことからして、斯ういふ丑松の秘密を感得《かんづ》いた。しかも其はつい近頃のことで有ると言出した。『といふ訳で、』と銀之助は額へ手を当てゝ、『そこへ気が付いてから、瀬川君の為ることは悉皆《すつかり》読めるやうに成ました。どうも可笑《をか》しい/\と思つて見て居ましたツけ――そりやあもう、辻褄《つじつま》の合はないやうなことが沢山《たくさん》有つたものですから。』
『成程《なるほど》ねえ。あるひは左様いふことが有るかも知れない。』
 と言つて、校長は郡視学と顔を見合せた。

       (四)

 軈《やが》て銀之助は応接室を出て、復《ま》たもとの職員室へ来て見ると、丑松と文平の二人が他の教員に取囲《とりま》かれ乍ら頻《しきり》に大火鉢の側で言争つて居る。黙つて聞いて居る人々も、見れば、同じやうに身を入れて、あるものは立つて腕組したり、あるものは机に倚凭《よりかゝ》つて頬杖《ほゝづゑ》を突いたり、あるものは又たぐる/\室内を歩き廻つたりして、いづれも熱心に聞耳を立てゝ居る様子。のみならず、丑松の様子を窺《うかゞ》ひ澄まして、穿鑿《さぐり》を入れるやうな眼付したものもあれば、半信半疑らしい顔付の手合もある。銀之助は談話《はなし》の調子を聞いて、二人が一方ならず激昂して居ることを知つた。
『何を君等は議論してるんだ。』
 と銀之助は笑ひ乍ら尋ねた。其時、人々の背後《うしろ》に腰掛け、手帳を繰り繙《ひろ》げ、丑松や文平の肖顔《にがほ》を写生し始めたのは準教員であつた。
『今ね、』と準教員は銀之助の方を振向いて見ながら、『猪子先生のことで、大分やかましく成つて来たところさ。』と言つて、一寸鉛筆の尖端《さき》を舐《な》めて、復《ま》た微笑《ほゝゑ》み乍ら写生に取懸つた。
『なにも其様《そんな》にやかましいことぢや無いよ。』斯う文平は聞咎《きゝとが》めたのである。『奈何《どう》して瀬川君は彼《あ》の先生の書いたものを研究する気に成つたのか、其を僕は聞いて見たばかりだ。』
『しかし、勝野君の言ふことは僕に能《よ》く解らない。』丑松の眼は燃え輝
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