事は最早《もう》悉皆《すつかり》忘れて了ふ。「あゝ、御気の毒だ――私が居なかつたら、奈何《どんな》に不自由を成さるだらう。」とまあ私も思ひ直したのですよ。間も無く女は和尚さんの子を産落しました。月不足《つきたらず》で、加之《おまけ》に乳が無かつたものですから、満二月《まるふたつき》とは其児も生きて居なかつたさうです。和尚さんが学校を退《ひ》くことに成つて、飯山へ帰る迄の私の心配は何程《どれほど》だつたでせう――丁度、今から十年前のことでした。それからといふものは、和尚さんも本気に成ましたよ。月に三度の説教は欠かさず、檀家の命日には必ず御経を上げに行く、近在廻りは泊り掛で出掛ける――さあ、檀家の人達も悉皆《すつかり》信用して、四年目の秋には本堂の屋根の修繕も立派に出来上りました。彼様《あゝ》いふ調子で、ずつと今迄進んで来たら、奈何《どんな》にか好からうと思ふんですけれど、少許《すこし》羽振が良くなると直《すぐ》に物に飽きるから困る。倦怠《あき》が来ると、復《ま》た病気が起る。そりやあもう和尚さんの癖なんですからね。あゝ、男といふものは恐しいもので、彼程《あれほど》平常《ふだん》物の解つた和尚さんで有ながら、病気となると何の判別《みさかへ》も着かなくなる。まあ瀬川さん、考へて見て下さい。和尚さんも最早《もう》五十一ですよ。五十一にも成つて、未《ま》だ其様《そん》な気で居るかと思ふと、実に情ないぢや有ませんか。成程《なるほど》――今日《こんにち》飯山あたりの御寺様《おてらさん》で、女狂ひを為《し》ないやうなものは有やしません。ですけれど、茶屋女を相手に為《す》るとか、妾狂ひを為るとか言へば、またそこにも有る。あのお志保に想《おもひ》を懸けるなんて――私は呆《あき》れて物も言へない。奈何《どう》考へて見ても、其様な量見を起す和尚さんでは無い筈《はず》です。必定《きつと》、奈何かしたんです。まあ、気でも狂《ちが》つて居るに相違ないんです。お志保は又、何もかも私に打開けて話しましてね、「母親《おつか》さん、心配しないで居て下さいよ、奈何《どん》な事が有つても私が承知しませんから」と言ふもんですから――いえ、彼娘《あのこ》はあれでなか/\毅然《しやん》とした気象の女ですからね――其を私も頼みに思ひまして、「お志保、確乎《しつかり》して居てお呉れよ、阿爺《おとつ》さんだつても物の解らない人では無し、お前と私の心地《こゝろもち》が屈いたら、必定《きつと》思ひ直して下さるだらう、阿爺さんが正気に復《かへ》るも復らないも二人の誠意《まごゝろ》一つにあるのだからね」斯《か》う言つて、二人でさん/″\哭《な》きました。なんの、私が和尚さんを悪く思ふもんですか。何卒《どうか》して和尚さんの眼が覚めるやうに――そればつかりで、私は斯様《こん》な離縁なぞを思ひ立つたんですもの。』

       (八)

 誠意《まごゝろ》籠る奥様の述懐を聞取つて、丑松は望みの通りに手紙の文句を認《したゝ》めてやつた。幾度か奥様は口の中で仏の名を唱《とな》へ乍《なが》ら、これから将来《さき》のことを思ひ煩《わづら》ふといふ様子に見えるのであつた。
『おやすみ。』
 といふ言葉を残して置いて奥様が出て行つた後、丑松は机の側に倒れて考へて居たが、何時の間にかぐつすり寝込んで了つた。寝ても、寝ても、寝足りないといふ風で、斯うして横になれば直に死んだ人のやうに成るのが此頃の丑松の癖である。のみならず、深いところへ陥落《おちい》るやうな睡眠《ねむり》で、目が覚めた後は毎時《いつも》頭が重かつた。其晩も矢張同じやうに、同じやうな仮寝《うたゝね》から覚めて、暫時《しばらく》茫然《ぼんやり》として居たが、軈《やが》て我に帰つた頃は、もう遅かつた。雪は屋外《そと》に降り積ると見え、時々窓の戸にあたつて、はた/\と物の崩れ落ちる音より外には、寂《しん》として声一つしない、それは沈静《ひつそり》とした、気の遠くなるやうな夜――無論人の起きて居る時刻では無かつた。階下《した》では皆な寝たらしい。不図《ふと》、何か斯う忍《しの》び音《ね》に泣くやうな若い人の声が細々と耳に入る。どうも何処から聞えるのか、其は能《よ》く解らなかつたが、まあ楼梯《はしごだん》の下あたり、暗い廊下の辺ででもあるか、誰かしら声を呑《の》む様子。尚《なほ》能く聞くと、北の廊下の雨戸でも明けて、屋外《そと》を眺《なが》めて居るものらしい。あゝ――お志保だ――お志保の嗚咽《すゝりなき》だ――斯う思ひ附くと同時に、言ふに言はれぬ恐怖《おそれ》と哀憐《あはれみ》とが身を襲《おそ》ふやうに感ぜられる。尤も、丑松は半分夢中で聞いて居たので、つと立上つて部屋の内を歩き初めた時は、もう其声が聞えなかつた。不思議に思ひ乍ら、浮足になつて耳を澄ましたり、壁に耳を寄せて聞いたりした。終《しまひ》には、自分で自分を疑つて、あるひは聞いたと思つたのが夢ででもあつたか、と其音の実《ほんと》か虚《うそ》かすらも判断が着かなくなる。暫時《しばらく》丑松は腕組をして、油の尽きて来た洋燈《ランプ》の火を熟視《みまも》り乍ら、茫然とそこに立つて居た。夜は更ける、心《しん》は疲れる、軈て押入から寝道具を取出した時は、自分で自分の為ることを知らなかつた位。急に烈しく睡気《ねむけ》が襲《さ》して来たので、丑松は半分眠り乍ら寝衣《ねまき》を着更へて、直に復《ま》た感覚《おぼえ》の無いところへ落ちて行つた。


   第拾八章

       (一)

 毎年《まいとし》降る大雪が到頭《たうとう》やつて来た。町々の人家も往来もすべて白く埋没《うづも》れて了つた。昨夜一晩のうちに四尺|余《あまり》も降積るといふ勢で、急に飯山は北国の冬らしい光景《ありさま》と変つたのである。
 斯うなると、最早《もう》雪の捨てどころが無いので、往来の真中へ高く積上げて、雪の山を作る。両側は見事に削り落したり、叩き付けたりして、すこし離れて眺めると、丁度長い白壁のやう。上へ/\と積上げては踏み付け、踏み付けては又た積上げるやうに為るので、軒丈《のきだけ》ばかりの高さに成つて、対《むか》ひあふ家と家とは屋根と廂《ひさし》としか見えなくなる。雪の中から掘出された町――譬《たと》へば飯山の光景《ありさま》は其であつた。
 高柳利三郎と町会議員の一人が本町の往来で出逢《であ》つた時は、盛んに斯雪を片付ける最中で、雪掻《ゆきかき》を手にした男女《をとこをんな》が其処此処《そここゝ》に群《むらが》り集つて居た。『どうも大降りがいたしました。』といふ極りの挨拶を交換《とりかは》した後、軈《やが》て別れて行かうとする高柳を呼留めて、町会議員は斯う言出した。
『時に、御聞きでしたか、彼《あ》の瀬川といふ教員のことを。』
『いゝえ。』と高柳は力を入れて言つた。『私は何《なんに》も聞きません。』
『彼の教員は君、調里《てうり》(穢多の異名)だつて言ふぢや有ませんか。』
『調里?』と高柳は驚いたやうに。
『呆《あき》れたねえ、是《これ》には。』と町会議員も顔を皺《しか》めて、『尤《もつと》も、種々《いろ/\》な人の口から伝《つたは》り伝つた話で、誰が言出したんだか能《よ》く解らない。しかし保証するとまで言ふ人が有るから確実《たしか》だ。』
『誰ですか、其保証人といふのは――』
『まあ、其は言はずに置かう。名前を出して呉れては困ると先方《さき》の人も言ふんだから。』
 斯う言つて、町会議員は今更のやうに他《ひと》の秘密を泄《もら》したといふ顔付。『君だから、話す――秘密にして置いて呉れなければ困る。』と呉々も念を押した。高柳はまた口唇を引歪めて、意味ありげな冷笑《あざわらひ》を浮べるのであつた。
 急いで別れて行く高柳を見送つて、反対《あべこべ》な方角へ一町ばかりも歩いて行つた頃、斯《こ》の噂好《うはさず》きな町会議員は一人の青年に遭遇《であ》つた。秘密に、と思へば思ふ程、猶々《なほ/\》其を私語《さゝや》かずには居られなかつたのである。
『彼の瀬川といふ教員は、君、是《これ》だつて言ひますぜ。』
 と指を四本出して見せる。尤も其意味が対手には通じなかつた。
『是だつて言つたら、君も解りさうなものぢや無いか。』と町会議員は手を振り乍ら笑つた。
『どうも解りませんね。』と青年は訝《いぶか》しさうな顔付。
『了解《さとり》の悪い人だ――それ、調里のことを四足《しそく》と言ふぢやないか。はゝゝゝゝ。しかし是は秘密だ。誰にも君、斯様なことは話さずに置いて呉れ給へ。』
 念を押して置いて、町会議員は別れて行つた。
 丁度、そこへ通りかゝつたのは、学校へ出勤しようとする準教員であつた。それと見た青年は駈寄つて、大雪の挨拶。何時の間にか二人は丑松の噂を始めたのである。
『是《これ》はまあ極《ご》く/\秘密なんだが――君だから話すが――』と青年は声を低くして、『君の学校に居る瀬川先生は調里ださうだねえ。』
『其さ――僕もある処で其話を聞いたがね、未だ半信半疑で居る。』と準教員は対手の顔を眺め乍ら言つた。『して見ると、いよ/\事実かなあ。』
『僕は今、ある人に逢つた。其人が指を四本出して見せて、彼の教員は是だと言ふぢやないか。はてな、とは思つたが、其意味が能く解らない。聞いて見ると、四足といふ意味なんださうだ。』
『四足? 穢多のことを四足と言ふかねえ。』
『言はあね。四足と言つて解らなければ、「よつあし」と言つたら解るだらう。』
『むゝ――「よつあし」か。』
『しかし、驚いたねえ。狡猾《かうくわつ》な人間もあればあるものだ。能《よ》く今日《いま》まで隠蔽《かく》して居たものさ。其様《そん》な穢《けがらは》しいものを君等の学校で教員にして置くなんて――第一怪しからんぢやないか。』
『叱《しツ》。』
 と周章《あわ》てゝ制するやうにして、急に準教員は振返つて見た。其時、丑松は矢張学校へ出勤するところと見え、深く外套《ぐわいたう》に身を包んで、向ふの雪の中を夢見る人のやうに通る。何か斯う物を考へ/\歩いて行くといふことは、其の沈み勝ちな様子を見ても知れた。暫時《しばらく》丑松も佇立《たちどま》つて、熟《じつ》と是方《こちら》の二人を眺めて、軈て足早に学校を指して急いで行つた。

       (二)

 雪に妨げられて、学校へ集る生徒は些少《すくな》かつた。何時《いつ》まで経《た》つても授業を始めることが出来ないので、職員のあるものは新聞縦覧所へ、あるものは小使部屋へ、あるものは又た唱歌の教室に在る風琴の周囲《まはり》へ――いづれも天の与へた休暇《やすみ》として斯の雪の日を祝ふかのやうに、思ひ/\の圜《わ》に集つて話した。
 職員室の片隅にも、四五人の教員が大火鉢を囲繞《とりま》いた。例の準教員が其中へ割込んで入つた時は、誰が言出すともなく丑松の噂を始めたのであつた。時々盛んな笑声が起るので、何事かと来て見るものが有る。終《しまひ》には銀之助も、文平も来て、斯の談話《はなし》の仲間に入つた。
『奈何《どう》です、土屋君。』と準教員は銀之助の方を見て、『吾儕《われ/\》は今、瀬川君のことに就いて二派に別れたところです。君は瀬川君と同窓の友だ。さあ、君の意見を一つ聞かせて呉れ給へ。』
『二派とは?』と銀之助は熱心に。
『外でも無いんですがね、瀬川君は――まあ、近頃世間で噂のあるやうな素性の人に相違ないといふ説と、いや其様な馬鹿なことが有るものかといふ説と、斯う二つに議論が別れたところさ。』
『一寸待つて呉れ給へ。』と薄鬚《うすひげ》のある尋常四年の教師が冷静な調子で言つた。『二派と言ふのは、君、少許《すこし》穏当で無いだらう。未《ま》だ、左様《さう》だとも、左様では無いとも、断言しない連中が有るのだから。』
『僕は確に其様なことは無いと断言して置く。』と体操の教師が力を入れた。
『まあ、土屋君、斯ういふ訳です。』と準教員は火鉢の周囲《まはり》に集る人々の顔を眺《なが》め廻して、『何故《なぜ》其様《そん》な説が出たかといふに、そこ
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