/\》したことも言へないぢやないか。』
 斯ういふ述懐は丑松を笑はせた。敬之進も亦《ま》た寂しさうに笑つて、
『ナニ、それもね、継母《まゝはゝ》ででも無けりや、またそこにもある。省吾の奴を奉公にでも出して了つたら、と我輩が思ふのは、実は今の家内との折合が付かないから。我輩はお志保や省吾のことを考へる度に、どの位あの二人の不幸《ふしあはせ》を泣いてやるか知れない。奈何《どう》して継母といふものは彼様《あんな》邪推深いだらう。此頃《こなひだ》も此頃で、ホラ君の御寺に説教が有ましたらう。彼晩《あのばん》、遅くなつて省吾が帰つて来た。さあ、家内は火のやうになつて怒つて、其様《そんな》に姉さんのところへ行きたくば最早《もう》家《うち》なんぞへ帰らなくても可《いゝ》。出て行つて了へ。必定《きつと》また御寺へ行つて余計なことをべら/\喋舌《しやべ》つたらう。必定また姉さんに悪い智慧を付けられたらう。だから私の言ふことなぞは聞かないんだ。斯う言つて、家内が責める。すると彼奴《あいつ》は気が弱いもんだから、黙つて寝床の内へ潜り込んで、しく/\やつて居ましたつけ。其時、我輩も考へた。寧《いつ》そこりや省吾を出した方が可《いゝ》。左様《さう》すれば、口は減るし、喧嘩《けんくわ》の種は無くなるし、あるひは家庭《うち》が一層《もつと》面白くやつて行かれるかも知れない。いや――どうかすると、我輩は彼《あ》の省吾を連れて、二人で家《うち》を出て了はうか知らん、といふやうな気にも成るのさ。あゝ。我輩の家庭《うち》なぞは離散するより外《ほか》に最早《もう》方法が無くなつて了つた。』
 次第に敬之進は愚痴な本性を顕した。酒気が身体へ廻つたと見えて、頬も、耳も、手までも紅《あか》く成つた。丑松は又、一向顔色が変らない。飲めば飲む程、反《かへ》つて頬は蒼白《あをじろ》く成る。
『しかし、風間さん、左様《さう》貴方のやうに失望したものでも無いでせう。』と丑松は言ひ慰めて、『及ばず乍ら私も力に成つて上げる気で居るんです。まあ、其盃を乾したら奈何《どう》ですか――一つ頂きませう。』
『え?』と敬之進はちら/\した眼付で、不思議さうに対手《あひて》の顔を眺めた。『これは驚いた。盃を呉れろと仰るんですか。へえ、君は斯の方もなか/\いけるんだね。我輩は又、飲めない人かとばかり思つて居た。』
 と言つて盃をさす。丑松は其を受取つて、一息にぐいと飲乾《のみほ》して了つた。
『烈しいねえ。』と敬之進は呆《あき》れて、『君は今日は奈何《どう》かしやしないか。左様《さう》君のやうに飲んでも可《いゝ》のか。まあ、好加減にした方が好からう。我輩が飲むのは不思議でも何でも無いが、君が飲むのは何だか心配で仕様が無い。』
『何故《なぜ》?』
『何故ツて、君、左様ぢやないか。君と我輩とは違ふぢや無いか。』
『はゝゝゝゝ。』
 と丑松は絶望した人のやうに笑つた。

       (七)

 何か敬之進は言ひたいことが有つて、其を言ひ得ないで、深い溜息を吐くといふ様子。其時はもう百姓も、橇曳《そりひき》も出て行つて了つた。余念も無く流許《ながしもと》で鍋《なべ》を鳴らして居る主婦《かみさん》、裏口の木戸のところに佇立《たゝず》んで居る子供、この人達より外に二人の談話《はなし》を妨《さまた》げるものは無かつた。高い天井の下に在るものは、何もかも暗く煤《すゝ》けた色を帯びて、昔の街道の名残《なごり》を顕《あらは》して居る。あちらの柱に草鞋《わらぢ》、こちらの柱に干瓢《かんぺう》、壁によせて黄な南瓜《かぼちや》いくつか並べてあるは、いかにも町はづれの古い茶屋らしい。土間も広くて、日あたりに眠る小猫もあつた。寒さの為に身を潜《すく》め乍ら目を瞑つて居る鶏もあつた。
 薄い日の光は明窓《あかりまど》から射して、軒から外へ泄《も》れる煙の渦を青白く照した。丑松は茫然と思ひ沈んで、炉《ろ》に燃え上る『ぼや』の焔《ほのほ》を熟視《みつ》めて居た。赤々とした火の色は奈何《どんな》に人の苦痛を慰めるものであらう。のみならず、強ひて飲んだ地酒の酔心地から、やたらに丑松は身を慄《ふる》はせて、時には人目も関はず泣きたい程の思に帰つた。あゝ声を揚げて放肆《ほしいまゝ》に泣いたなら、と思ふ心は幾度起るか知れない。しかし涙は頬を霑《うるほ》さなかつた――丑松は嗚咽《すゝりな》くかはりに、大きく口を開いて笑つたのである。
『あゝ。』と敬之進は嘆息して、『世の中には、十年も交際《つきあ》つて居て、それで毎時《いつでも》初対面のやうな気のする人も有るし、又、君のやうに、其様《そんな》に深い懇意な仲で無くても、斯うして何もかも打明けて話したい人が有る。我輩が斯様《こん》な話をするのは、実際、君より外に無い。まあ、是非君に聞いて貰ひたいと思ふことが有るんでね。』とすこし言淀んで、『実は――此頃《こなひだ》久し振で娘に逢ひました。』
『お志保さんに?』丑松の胸は何となく踊るのであつた。
『といふのは、君、あの娘《こ》の方から逢つて呉れろといふ言伝《ことづけ》があつて――尤《もつと》も、我輩もね、君の知つてる通り蓮華寺とは彼様《あゝ》いふ訳だし、それに家内は家内だし、するからして、成るべく彼の娘には逢はないやうにして居る。ところが何か相談したいことが有ると言ふもんだから、まあ、その、久し振で逢つて見た。どうも若いものがずん/\大きく成るのには驚いて了ふねえ。まるで見違へる位。それで君、何の相談かと思ふと、最早々々《もう/\》奈何《どう》しても蓮華寺には居られない、一日も早く家《うち》へ帰るやうにして呉れ、頼む、と言ふ。事情を聞いて見ると無理もない。其時我輩も始めて彼の住職の性質を知つたやうな訳サ。』
 と言つて、敬之進は一寸徳利を振つて見た。生憎《あいにく》酒は盃《さかづき》に満たなかつた。やがて一口飲んで、両手で口の端《はた》を撫《な》で廻して、
『斯《か》うです。まあ、君、聞いて呉れ給へ。よく世間には立派な人物だと言はれて居ながら、唯|女性《をんな》といふものにかけて、非常に弱い性質《たち》の男があるものだね。蓮華寺の住職も矢張《やはり》其だらうと思ふよ。彼程《あれほど》学問もあり、弁才もあり、何一つ備はらないところの無い好い人で、殊《こと》に宗教《をしへ》の方の修行もして居ながら、それでまだ迷が出るといふのは、君、奈何《どう》いふ訳だらう。我輩は娘から彼《あ》の住職のことを聞いた時、どうしても其が信じられなかつた。いや、嘘だとしか思はれなかつた。実に人は見かけによらないものさね。ホラ、彼の住職も長いこと西京へ出張して居ましたよ。丁度帰つて来たのは、君が郷里の方へ行つて留守だつた時さ。それからといふものは、まあ娘に言はせると、奈何《どう》しても養父《おとつ》さんの態度《しむけ》とは思はれないと言ふ。かりそめにも仏の御弟子ではないか。袈裟《けさ》を着《つけ》て教を説く身分ではないか。自分の職業に対しても、もうすこし考へさうなものだと思ふんだ。あまり浅猿《あさま》しい、馬鹿馬鹿しいことで、他《ひと》に話も出来ないやね。奥様はまた奥様で、彼様《あゝ》いふ性質の女だから、人並勝れて嫉妬深《しつとぶか》いと来て居る。娘はもう悲いやら恐しいやらで、夜も碌々眠られないと言ふ。呆《あき》れたねえ、我輩も是《この》話を聞いた時は。だから、君、娘が家《うち》へ帰りたいと言ふのは、実際無理もない。我輩だつて、其様なところへ娘を遣《や》つて置きたくは無い。そりやあもう一日も早く引取りたい。そこがそれ情ないことには、今の家内がもうすこし解つて居て呉れると、奈何《どう》にでもして親子でやつて行かれないことも有るまいと思ふけれど、現に省吾一人にすら持余して居るところへ、またお志保の奴が飛込んで来て見給へ――到底《とても》今の家内と一緒に居られるもんぢや無い。第一、八人の親子が奈何して食へよう。其や是やを考へると、我輩の口から娘に帰れとは言はれないぢやないか。噫《あゝ》、辛抱、辛抱――出来ることを辛抱するのは辛抱でも何でも無い、出来ないところを辛抱するのが真実《ほんたう》の辛抱だ。行け、行け、心を毅然《しつかり》持て。奥様といふものも附いて居る。その人の傍に居て離れないやうにしたら、よもや無理なことを言懸けられもしまい。たとへ先方《さき》が親らしい行為をしない迄《まで》も、これまで育てゝ貰つた恩義も有る。一旦蓮華寺の娘と成つた以上は、奈何《どん》な辛いことがあらうと決して家《うち》へ帰るな。そこを勤め抜くのが孝行といふものだ。とまあ、賺《すか》したり励《はげま》したりして、無理やりに娘を追立てゝやつたよ。思へば可愛さうなものさ。あゝ、あゝ、斯ういふ時に先の家内が生きて居たならば――』
 敬之進の顔には真実と苦痛とが表れて、眼は涙の為に濡《ぬ》れ輝いた。成程、左様言はれて見ると、丑松も思ひ当ることがないでもない。あの蓮華寺の内部《なか》の光景《ありさま》を考へると、何か斯う暗い雲が隅のところに蟠《わだかま》つて、絶えず其が家庭の累《わづらひ》を引起す原因《もと》で、住職と奥様とは無言の間に闘つて居るかのやう――譬《たと》へば一方で日があたつて、楽しい笑声の聞える時でも、必ず一方には暴風雨《あらし》が近《ちかづ》いて居る。斯ういふ感想《かんじ》は毎日のやうに有つた。唯其は何処の家庭《うち》にも克《よ》くある角突合《つのづきあひ》――まあ、住職と奥様とは互ひに仏弟子のことだから、言はゞ高尚な夫婦喧嘩、と丑松も想像して居たので、よもや其雲のわだかまりがお志保の上にあらうとは思ひ設けなかつたのである。奥様がわざ/\磊落《らいらく》らしく装《よそほ》つて、剽軽《へうきん》なことを言つて、男のやうな声を出して笑ふのも、其為だらう。紅涙《なんだ》が克《よ》くお志保の顔を流れるのも、其為だらう。どうもをかしい/\と思つて居たことは、この敬之進の話で悉皆《すつかり》読めたのである。
 長いこと二人は悄然《しよんぼり》として、互ひに無言の儘《まゝ》で相対《さしむかひ》に成つて居た。


   第拾七章

       (一)

 勘定を済まして笹屋を出る時、始めて丑松は月給のうちを幾許《いくら》袂《たもと》に入れて持つて来たといふことに気が着いた。それは銀貨で五十銭ばかりと、外に五円|紙幣《さつ》一枚あつた。父の存命中は毎月|為替《かはせ》で送つて居たが、今は其を為《す》る必要も無いかはり、帰省の当時大分|費《つか》つた為に斯金《このかね》が大切のものに成つて居る、彼是《かれこれ》を考へると左様無暗には費はれない。しかし丑松の心は暗かつた。自分のことよりは敬之進の家族を憐むのが先で、兎《と》に角《かく》省吾の卒業する迄、月謝や何かは助けて遣《や》りたい――斯う考へるのも、畢竟《つまり》はお志保を思ふからであつた。
 酔つて居る敬之進を家《うち》まで送り届けることにして、一緒に雪道を歩いて行つた。慄《ふる》へるやうな冷い風に吹かれて、寒威《さむさ》に抵抗《てむかひ》する力が全身に満ち溢《あふ》れると同時に、丑松はまた精神《こゝろ》の内部《なか》の方でもすこし勇気を回復した。並んで一緒に歩く敬之進は、と見ると――釣竿を忘れずに舁《かつ》いで来た程、其様《そんな》に酷《ひど》く酔つて居るとも思はれないが、しかし不規則な、覚束ない足許《あしもと》で、彼方《あつち》へよろ/\、是方《こつち》へよろ/\、どうかすると往来の雪の中へ倒れかゝりさうに成る。『あぶない、あぶない。』と丑松が言へば、敬之進は僅かに身を支へて、『ナニ、雪の中だ? 雪の中、結構――下手な畳の上よりも、結句|是方《このはう》が気楽だからね。』これには丑松も持余して了《しま》つて、若《も》し是雪《このゆき》の中で知らずに寝て居たら奈何《どう》するだらう、斯う思ひやつて身を震はせた。斯の老朽な教育者の末路、彼の不幸なお志保の身の上――まあ、丑松は敬之進親子のことばかり思ひつゞけ乍ら随《つ》いて行つた。
 敬之進の住居《すまひ
前へ 次へ
全49ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング