ほこり》を払つて、一緒にして風呂敷に包んで居ると、丁度そこへ袈裟治が入つて来た。
『御出掛?』
 斯う声を掛ける。丑松はすこし周章《あわ》てたといふ様子して、別に返事もしないのであつた。
『この寒いのに御出掛なさるんですか。』と袈裟治は呆《あき》れて、蒼《あを》ざめた丑松の顔を眺めた。『気分が悪くて寝て居なさる人が――まあ。』
『いや、もう悉皆《すつかり》快くなつた。』
『ほゝゝゝゝ。それはさうと、御腹《おなか》が空きやしたらう。何か食べて行きなすつたら――まあ、貴方《あんた》は今朝から何《なんに》も食べなさらないぢやごはせんか。』
 丑松は首を振つて、すこしも腹は空かないと言つた。壁に懸けてある外套《ぐわいたう》を除《はづ》して着たのも、帽子を冠つたのも、着る積りも無く着、冠る積りも無く冠つたので、丁度感覚の無い器械が動くやうに、自分で自分の為《す》ることを知らない位であつた。丑松はまた、友達が持つて来て呉れた月給を机の抽匣《ひきだし》の中へ入れて、其内を紙の袋のまゝ袂へも入れた。尤も幾許《いくら》置いて、幾許自分の身に着けたか、それすら好くは覚えて居ない。斯うして書物の包を提げて、成るべく外套の袖で隠すやうにして、軈てぶらりと蓮華寺の門を出た。

       (四)

 雪は往来にも、屋根の上にもあつた。『みの帽子』を冠り、蒲《がま》の脛穿《はゞき》を着け、爪掛《つまかけ》を掛けた多くの労働者、または毛布を頭から冠つて深く身を包んで居る旅人の群――其様《そん》な手合が眼前《めのまへ》を往つたり来たりする。人や馬の曳く雪橇《ゆきぞり》は幾台《いくつ》か丑松の側を通り過ぎた。
 長い廻廊のやうな雪除《ゆきよけ》の『がんぎ』(軒廂《のきびさし》)も最早《もう》役に立つやうに成つた。往来の真中に堆高《うづだか》く掻集めた白い小山の連接《つゞき》を見ると、今に家々の軒丈よりも高く降り積つて、これが飯山名物の『雪山』と唄《うた》はれるかと、冬期の生活《なりはひ》の苦痛《くるしみ》を今更のやうに堪へがたく思出させる。空の模様はまた雪にでも成るか。薄い日のひかりを眺めたばかりでも、丑松は歩き乍ら慄《ふる》へたのである。
 上町《かみまち》の古本屋には嘗《かつ》て雑誌の古を引取つて貰つた縁故もあつた。丁度其|店頭《みせさき》に客の居なかつたのを幸《さいはひ》、ついと丑松は帽子を脱いで入つて、例の風呂敷包を何気なく取出した。『すこしばかり書籍《ほん》を持つて来ました――奈何《どう》でせう、是《これ》を引取つて頂きたいのですが。』と其を言へば、亭主は直に丑松の顔色を読んで、商人《あきんど》らしく笑つて、軈《やが》て膝を進め乍ら風呂敷包を手前へ引寄せた。
『ナニ、幾許《いくら》でも好いんですから――』
 と丑松は添加《つけた》して言つた。
 亭主は風呂敷包を解《ほど》いて、一冊々々書物の表紙を調べた揚句、それを二通りに分けて見た。語学の本は本で一通り。兎も角も其丈《それだけ》は丁寧に内部《なかみ》を開けて見て、それから蓮太郎の著したものは無造作に一方へ積重ねた。
『何程《いかほど》ばかりで是は御譲りに成る御積りなんですか。』と亭主は丑松の顔を眺めて、さも持余したやうに笑つた。
『まあ、貴方の方で思つたところを附けて見て下さい。』
『どうも是節は不景気でして、一向に斯《か》ういふものが捌《は》けやせん。御引取り申しても好うごはすが、しかし金高があまり些少《いさゝか》で。実は申上げるにしやしても、是方《こちら》の英語の方だけの御直段《おねだん》で、新刊物の方はほんの御愛嬌《ごあいけう》――』と言つて、亭主は考へて、『こりや御持帰りに成りやした方が御為かも知れやせん。』
『折角《せつかく》持つて来たものです――まあ、左様言はずに、引取れるものなら引取つて下さい。』
『あまり些少《いさゝか》ですが、好うごはすか。そんなら、別々に申上げやせうか。それとも籠《こ》めて申上げやせうか。』
『籠めて言つて見て下さい。』
『奈何《いかゞ》でせう、精一杯なところを申上げて、五十五銭。へゝゝゝゝ。それで宜《よろ》しかつたら御引取り申して置きやす。』
『五十五銭?』
 と丑松は寂しさうに笑つた。
 もとより何程《いくら》でも好いから引取つて貰ふ気。直に話は纏《まとま》つた。あゝ書物ばかりは売るもので無いと、予《かね》て丑松も思はないでは無いが、然しこゝへ持つて来たのは特別の事情がある。やがて自分の宿処と姓名とを先方《さき》の帳面へ認《したゝ》めてやつて、五十五銭を受取つた。念の為、蓮太郎の著したものだけを開けて見て、消して持つて来た瀬川といふ認印《みとめ》のところを確めた。中に一冊、忘れて消して無いのがあつた。『あ――ちよつと、筆を貸して呉れませんか。』斯う言つて、借りて、赤々と鮮明《あざやか》に読まれる自分の認印の上へ、右からも左からも墨黒々と引いた。
『斯うして置きさへすれば大丈夫。』――丑松の積りは斯うであつた。彼の心は暗かつたのである。思ひ迷ふばかりで、実は奈何《どう》していゝか解らなかつたのである。古本屋を出て、自分の為《し》たことを考へ乍ら歩いた時は、もう哭《な》きたい程の思に帰つた。
『先生、先生――許して下さい。』
 と幾度か口の中で繰返した。其時、あの高柳に蓮太郎と自分とは何の関係も無いと言つたことを思出した。鋭い良心の詰責《とがめ》は、身を衛《まも》る余儀なさの弁解《いひわけ》と闘つて、胸には刺されるやうな深い/\悲痛《いたみ》を感ずる。丑松は羞《は》ぢたり、畏《おそ》れたりしながら、何処へ行くといふ目的《めあて》も無しに歩いた。

       (五)

 一ぜんめし、御酒肴《おんさけさかな》、笹屋、としてあるは、かねて敬之進と一緒に飲んだところ。丑松の足は自然とそちらの方へ向いた。表の障子を開けて入ると、そここゝに二三の客もあつて、飲食《のみくひ》して居る様子。主婦《かみさん》は流許《ながしもと》へ行つたり、竈《かまど》の前に立つたりして、多忙《いそが》しさうに尻端折《しりはしをり》で働いて居た。
『主婦《かみ》さん、何か有ますか。』
 斯《か》う丑松は声を掛けた。主婦は煤《すゝ》けた柱の傍に立つて、手を拭《ふ》き乍《なが》ら、
『生憎《あいにく》今日《こんち》は何《なんに》も無くて御気の毒だいなあ。川魚の煮《た》いたのに、豆腐の汁《つゆ》ならごはす。』
『そんなら両方貰ひませう。それで一杯飲まして下さい。』
 其時、一人の行商が腰掛けて居た樽《たる》を離れて、浅黄の手拭で頭を包み乍ら、丑松の方を振返つて見た。雪靴の儘《まゝ》で柱に倚凭《よりかゝ》つて居た百姓も、一寸盗むやうに丑松を見た。主婦《かみさん》が傾《かし》げた大徳利の口を玻璃杯《コップ》に受けて、茶色に気《いき》の立つ酒をなみ/\と注いで貰ひ、立つて飲み乍ら、上目で丑松を眺める橇曳《そりひき》らしい下等な労働者もあつた。斯ういふ風に、人々の視線が集まつたのは、兎《と》に角《かく》毛色の異《かは》つた客が入つて来た為、放肆《ほしいまゝ》な雑談を妨《さまた》げられたからで。尤《もつと》も斯《こ》の物見高い沈黙は僅かの間であつた。やがて復《ま》た盛んな笑声が起つた。炉《ろ》の火も燃え上つた。丑松は炉辺《ろばた》に満ち溢《あふ》れる『ぼや』の烟のにほひを嗅《か》ぎ乍《なが》ら、そこへ主婦が持出した胡桃足《くるみあし》の膳を引寄せて、黙つて飲んだり食つたりして居ると、丁度出て行く行商と摺違ひに釣の道具を持つて入つて来た男がある。
『よう、めづらしい御客様が来てますね。』
 と言ひ乍ら、釣竿を柱にたてかけたのは敬之進であつた。
『風間さん、釣ですか。』斯《か》う丑松は声を掛ける。
『いや、どうも、寒いの寒くないのツて。』と敬之進は丑松と相対《さしむかひ》に座を占めて、『到底《とても》川端で辛棒が出来ないから、廃《や》めて帰つて来た。』
『ちつたあ釣れましたかね。』と聞いて見る。
『獲物《えもの》無しサ。』と敬之進は舌を出して見せて、『朝から寒い思をして、一匹も釣れないでは君、遣切《やりき》れないぢやないか。』
 其調子がいかにも可笑《をか》しかつた。盛んな笑声が百姓や橇曳《そりひき》の間に起つた。
『不取敢《とりあへず》、一つ差上げませう。』と丑松は盃《さかづき》の酒を飲乾して薦《すゝ》める。
『へえ、我輩に呉れるのかね。』と敬之進は目を円《まる》くして、『こりやあ驚いた。君から盃を貰はうとは思はなかつた――道理で今日は釣れない訳だよ。』と思はず流れ落ちる涎《よだれ》を拭つたのである。
 間も無く酒瓶《てうし》の熱いのが来た。敬之進は寒さと酒慾とで身を震はせ乍ら、さも/\甘《うま》さうに地酒の香を嗅いで見て、
『しばらく君には逢《あ》はなかつたやうな気がするねえ。我輩も君、学校を休《や》めてから別に是《これ》といふ用が無いもんだから、斯様《こん》な釣なぞを始めて――しかも、拠《よんどころ》なしに。』
『何ですか、斯の雪の中で釣れるんですか。』と丑松は箸を休《や》めて対手の顔を眺めた。
『素人《しろうと》は其だから困る。尤も我輩だつて素人だがね。はゝゝゝゝ。まあ商売人に言はせると、冬はまた冬で、人の知らないところに面白味がある。ナニ、君、風さへ無けりや、左様《さう》思つた程でも無いよ。』と言つて、敬之進は一口飲んで、『然し、瀬川君、考へて見て呉れ給へ。何が辛いと言つたつて、用が無くて生きて居るほど世の中に辛いことは無いね。家内やなんかが※[#「足へん+昔」、第4水準2−89−36]々《せつせ》と働いて居る側で、自分ばかり懐手《ふところで》して見ても居られずサ。まだそれでも、斯うして釣に出られるやうな日は好いが、屋外《そと》へも出られないやうな日と来ては、実に我輩は為《す》る事が無くて困る。左様いふ日には、君、他に仕方が無いから、まあ昼寝を為ることに極《き》めてね――』
 至極真面目で、斯様《こん》なことを言出した。この『昼寝を為ることに極めてね』が酷《ひど》く丑松の心を動かしたのである。
『時に、瀬川君。』と敬之進は酒徒《さけのみ》らしい手付をして、盃を取上げ乍ら、『省吾の奴も長々君の御世話に成つたが、種々《いろ/\》家の事情を考へると、どうも我輩の思ふやうにばかりもいかないことが有るんで――まあ、その、学校を退《ひ》かせようかと思ふのだが、君、奈何《どう》だらう。』

       (六)

『そりやあもう我輩だつて退校させたくは無いさ。』と敬之進は言葉を続けた。『せめて普通教育位は完全に受けさせたいのが親の情さ。来年の四月には卒業の出来るものを、今|茲《こゝ》で廃《や》めさせて、小僧奉公なぞに出して了《しま》ふのは可愛さうだ、とは思ふんだが、実際止むを得んから情ない。彼様《あん》な茫然《ぼんやり》した奴《やつ》だが、万更《まんざら》学問が嫌ひでも無いと見えて、学校から帰ると直に机に向つては、何か独りでやつてますよ。どうも数学が出来なくて困る。其かはり作文は得意だと見えて、君から「優」なんて字を貰つて帰つて来ると、それは大悦《おほよろこ》びさ。此頃《こなひだ》も君に帳面を頂いた時なぞは、先生が作文を書けツて下すつたと言つてね、まあ君どんなに喜びましたらう。その嬉しがりやうと言つたら、大切に本箱の中へ入れて仕舞つて置いて、何度出して見るか解らない位さ。彼《あ》の晩は寝言にまで言つたよ。それ、左様《さう》いふ風だから、兎《と》に角《かく》やる気では居るんだねえ。其を思ふと廃して了へと言ふのは実際可愛さうでもある。しかし、君、我輩のやうに子供が多勢では左《どう》にも右《かう》にも仕様が無い。一概に子供と言ふけれど、その子供がなか/\馬鹿にならん。悪戯《いたづら》なくせに、大飯食《おほめしぐら》ひばかり揃つて居て――はゝゝゝゝ、まあ君だから斯様《こん》なことまでも御話するんだが、まさか親の身として、其様《そんな》に食ふな、三杯位にして節《ひか》へて置け、なんて過多《あんまり》吝嗇《けち
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