あつた。お志保は熟《じつ》と眺め入り乍ら、寺住の身と思比べて居たらしいのである。
『や、どうも今晩の御説教には驚きましたねえ。』と文平は住職に近いて言つた。『実に彼の白隠の歴史には感服して了ひました。まあ、始めてです、彼様《あゝ》いふ御話を伺つたことは。あの白隠が恵端禅師の許《ところ》へ尋ねて行く。あそこのところが私は気に入りました。斯う向ふの方から、掻集めた木葉を背負ひ乍ら、散切頭に髯茫々といふ姿で、とぼ/\と谷間を帰つて来る人がある。そこへ白隠が切込んで行つた。「そもさん。」――彼様《あゝ》いかなければ不可《いけ》ませんねえ。』と身振手真似を加へて喋舌《しやべ》りたてたので、住職はもとより、其を聞く人々は笑はずに居られなかつた。さうかうする中に、聴衆は最早《もう》悉皆《すつかり》帰つて了ふ。急に本堂の内は寂しく成る。若僧や子坊主は多忙《いそが》しさうに後片付。庄馬鹿は腰を曲《こゞ》め乍ら、畳の上の賽銭を掻集めて歩いた。
 其時は最早《もう》丑松の姿が本堂の内に見えなかつた。丑松は省吾を連れて、蔵裏の方へ見送つて行つてやつた。丁度文平が奥様やお志保の側で盛んに火花を散らして居る間に、丑松は黙つて省吾を慰撫《いたは》つたり、人の知らない面倒を見て遣つたりして居たのである。


   第拾六章

       (一)

 次第に丑松は学校へ出勤するのが苦しく成つて来た。ある日、あまりの堪へがたさに、欠席の届を差出した。其朝は遅くまで寝て居た。八時打ち、九時打ち、軈《やが》て十時打つても、まだ丑松は寝て居た。窓の障子《しやうじ》は冬の日をうけて、其光が部屋の内へ射しこんで来たのに、丑松は枕頭《まくらもと》を照らされても、まだそれでも起きることが出来なかつた。下女の袈裟治は部屋々々の掃除を済《す》まして、最早《もう》とつくに雑巾掛《ざふきんがけ》まで為《し》て了《しま》つた。幾度か二階へも上つて来て見た。来て見ると、丑松は疲れて、蒼《あを》ざめて、丁度|酣酔《たべすご》した人のやうに、寝床の上に倒れて居る。枕頭は取散らした儘《まゝ》。あちらの隅に書物、こちらの隅に風呂敷包、すべて斯の部屋の内に在る道具といへば、各自《めい/\》勝手に乗出して踊つたり跳ねたりした後のやうで、其乱雑な光景《ありさま》は部屋の主人の心の内部《なか》を克《よ》く想像させる。軈てまた袈裟治が湯沸《ゆわかし》を提げて入つて来た時、漸《やうや》く丑松は起上つて、茫然《ぼんやり》と寝床の上に座つて居た。寝過ぎと衰弱《おとろへ》とから、恐しい苦痛の色を顔に表して、半分は未だ眠り乍ら其処に座つて居るかのやう。『御飯を持つて来ませうか。』斯う袈裟治が聞いて見ても、丑松は食ふ気に成らなかつたのである。
『あゝ、気分が悪くて居なさると見える。』
 と独語《ひとりごと》のやうに言ひ乍ら、袈裟治は出て行つた。
 それは北国の冬らしい、寂しい日であつた。ちひさな冬の蠅は斯の部屋の内に残つて、窓の障子をめがけては、あちこち/\と天井の下を飛びちがつて居た。丑松が未だ斯の寺へ引越して来ないで、あの鷹匠町の下宿に居た頃は、煩《うるさ》いほど沢山蠅の群が集つて、何処《どこ》から塵埃《ほこり》と一緒に舞込んで来たかと思はれるやうに、鴨居だけばかりのところを組《く》んづ離《ほぐ》れつしたのであつた。思へば秋風を知つて、短い生命《いのち》を急いだのであらう。今は僅かに生残つたのが斯うして目につく程の季節と成つた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、十二月の近いたことを思ひ浮べたのである。
 斯《か》うして、働けば働ける身をもつて、何《なんに》も為《せ》ずに考へて居るといふことは、決して楽では無い。官費の教育を享《う》けたかはりに、長い義務年限が纏綿《つきまと》つて、否でも応でも其間厳重な規則に服従《したが》はなければならぬ、といふことは――無論、丑松も承知して居る。承知して居乍ら、働く気が無くなつて了つた。噫《あゝ》、朝寝の床は絶望した人を葬る墓のやうなもので有らう。丑松は復たそこへ倒れて、深い睡眠《ねむり》に陥入《おちい》つた。

       (二)

『瀬川先生、御客様でやすよ。』
 と喚起《よびおこ》す袈裟治の声に驚かされて、丑松は銀之助が来たことを知つた。銀之助ばかりでは無い、例の準教員も勤務《つとめ》の儘の服装《みなり》でやつて来た。其日は、地方を巡回して歩く休職の大尉とやらが軍事思想の普及を計る為、学校の生徒一同に談話《はなし》をして聞かせるとかで、午後の課業が休みと成つたから、一寸暇を見て尋ねて来たといふ。丑松は寝床の上に起直つて、半ば夢のやうに友達の顔を眺めた。
『君――寝て居たまへな。』
 斯う銀之助は無造作な調子で言つた。真実丑松をいたはるといふ心が斯《この》友達の顔色に表れる。丑松は掛蒲団の上にある白い毛布を取つて、丁度|褞袍《どてら》を着たやうな具合に、其を身に纏《まと》ひ乍ら、
『失敬するよ、僕は斯様《こん》なものを着て居るから。ナニ、君、其様《そんな》に酷《ひど》く不良《わる》くも無いんだから。』
『風邪《かぜ》ですか。』と準教員は丑松の顔を熟視《みまも》る。
『まあ、風邪だらうと思ふんです。昨夜から非常に頭が重くて、奈何《どう》しても今朝は起きることが出来ませんでした。』と丑松は準教員の方へ向いて言つた。
『道理で、顔色が悪い。』と銀之助は引取つて、『インフルヱンザが流行《はや》るといふから、気をつけ給へ。何か君、飲んで見たら奈何だい。焼味噌のすこし黒焦《くろこげ》に成つたやつを茶漬茶椀かなんかに入れて、そこへ熱湯《にえゆ》を注込《つぎこ》んで、二三杯もやつて見給へ。大抵の風邪は愈《なほ》つて了《しま》ふよ。』と言つて、すこし気を変へて、『や、好い物を持つて来て、出すのを忘れた――それ、御土産《おみやげ》だ。』
 斯《か》う言つて、風呂敷包の中から取出したのは、十一月分の月給。
『今日は君が出て来ないから、代理に受取つて置いた。』と銀之助は言葉を続けた。
『克《よ》く改めて見て呉れ給へ――まあ有る積りだがね。』
『それは難有う。』と丑松は袋入りの銀貨取混ぜて受取つて、『確に。して見ると今日は二十八日かねえ。僕はまた二十七日だとばかり思つて居た。』
『はゝゝゝゝ、月給取が日を忘れるやうぢやあ仕様が無い。』と銀之助は反返《そりかへ》つて笑つた。
『全く、僕は茫然《ぼんやり》して居た。』と丑松は自分で自分を励ますやうにして、『今月は君、小だらう。二十九、三十と、十一月も最早《もう》二日しか無いね。あゝ今年も僅かに成つたなあ。考へて見ると、うか/\して一年暮して了つた――まあ、僕なぞは何《なんに》も為なかつた。』
『誰だつて左様《さう》さ。』と銀之助も熱心に。
『君は好いよ。君はこれから農科大学の方へ行つて、自分の好きな研究が自由にやれるんだから。』
『時に、僕の送別会もね、生徒の方から明日にしたいと言出したが――』
『明日に?』
『しかし、君も斯うして寝て居るやうぢやあ――』
『なあに、最早|愈《なほ》つたんだよ。明日は是非出掛ける。』
『はゝゝゝゝ、瀬川君の病気は不良《わる》くなるのも早いし、快《よ》くなるのも早い。まあ大病人のやうに呻吟《うな》つてるかと思ふと、また虚言《うそ》を言つたやうに愈《なほ》るから不思議さ――そりやあ、もう、毎時《いつも》御極りだ。それはさうと、斯うして一緒に馬鹿を言ふのも僅かに成つて来た。其内に御別れだ。』
『左様かねえ、君はもう行つて了ふかねえ。』
 斯ういふ言葉を取交して、二人は互に感慨に堪へないといふ様子であつた。其時迄、黙つて二人の談話《はなし》を聞いて、巻煙草ばかり燻《ふか》して居た準教員は、唐突《だしぬけ》に斯様《こん》なことを言出した。
『今日僕は妙なことを聞いて来た。学校の職員の中に一人新平民が隠れて居るなんて、其様《そん》なことを町の方で噂《うはさ》するものが有るさうだ。』

       (三)

『誰が其様なことを言出したんだらう。』と銀之助は準教員の方へ向いて言つた。
『誰が言出したか、其は僕も知らないがね。』と準教員はすこし困却《こま》つたやうな調子で、『要するに、人の噂に過ぎないんだらうと思ふんだ。』
『噂にもよりけりさ。其様なことを言はれちやあ、大に吾儕《われ/\》が迷惑するねえ。克《よ》く町の人は種々《いろ/\》なことを言触らす。やれ、女の教員が奈何《どう》したの、男の教員が斯様《かう》したのツて。何故《なぜ》、左様《さう》人の噂が為たいんだらう。そんなら、君、まあ学校の職員を数へて見給へ。穢多らしいやうな顔付のものが吾儕の中にあるかい。実に怪しからんことを言ふぢやないか――ねえ、瀬川君。』
 斯う言つて、銀之助は丑松の方を見た。丑松は無言で、白い毛布に身を包んだまゝ。
『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出した。『校長先生は随分|几帳面《きちやうめん》な方だが、なんぼなんでも新平民とは思はれないし、と言つて、教員仲間に其様なものは見当りさうも無い。左様さなあ――いやに気取つてるのは勝野君だ――まあ、其様な嫌疑のかゝるのは勝野君位のものだ。』
『まさか。』と準教員も一緒になつて笑つた。
『そんなら、君、誰だと思ふ。』と銀之助は戯れるやうに、『さしづめ、君ぢやないか。』
『馬鹿なことを言ひ給へ。』と準教員はすこし憤然《むつ》とする。
『はゝゝゝゝ、君は直に左様《さう》怒《おこ》るから不可《いかん》。なにも君だと言つた訳では無いよ。真箇《ほんたう》に、君のやうな人には戯語《じようだん》も言へない。』
『しかし。』と準教員は真面目《まじめ》に成つて、『是《これ》がもし事実だと仮定すれば――』
『事実? 到底《たうてい》其様なことは有得べからざる事実だ。』と銀之助は聞入れなかつた。『何故と言つて見給へ。学校の職員は大抵|出処《でどこ》が極《きま》つて居る。君等のやうに講習を済まして来た人か、勝野君のやうに検定試験から入つて来た人か、または吾儕《われ/\》のやうに師範出か――是より外には無い。若《も》し吾儕の中に其様《そん》な人が有るとすれば、師範校時代にもう知れて了ふね。卒業する迄も其が知れずに居るなんてことは、寄宿舎生活が許さないさ。検定試験を受けるやうな人は、いづれ長く学校に関係した連中だから、是も知れずに居る筈が無し、君等の方はまた猶更《なほさら》だらう。それ見給へ。今になつて、突然其様なことを言触らすといふは、すこし可笑《をか》しいぢやないか。』
『だから――』と準教員は言葉に力を入れて、『僕だつても事実だと言つた訳では無いサ。若《もし》事実だと仮定すれば、と言つたんサ。』
『若《もし》かね。はゝゝゝゝ。君の言ふ若は仮定する必要の無い若だ。』
『左様《さう》言へばまあ其迄だが、しかし万一|其様《そん》なことが有るとすれば、奈何《どう》いふ結果に成つて行くものだらう――僕は考へたばかりでも恐しいやうな気がする。』
 銀之助は答へなかつた。二人の客はもうそれぎり斯様《こん》な話を為なかつた。
 軈《やが》て二人が言葉を残して出て行かうとした時は、丑松は喪心した人のやうで、其顔色は白い毛布に映つて、一層蒼ざめて見えたのである。『あゝ、瀬川君は未だ快《よ》くないんだらう。』斯《か》う銀之助は自分で自分に言ひ乍ら、準教員と一緒に楼梯《はしごだん》を下りて行つた。
 暫時《しばらく》丑松は茫然として部屋の内を眺め廻して居たが、急に寝床を片付けて、着物を着更へて見た。不図《ふと》思ひついたやうに、押入の隅のところに隠して置いた書物を取出した。それはいづれも蓮太郎を思出させるもので、彼の先輩が心血と精力とを注ぎ尽したといふ『現代の思潮と下層社会』、小冊子には『平凡なる人』、『労働』、『貧しきものゝ慰め』、それから『懴悔録』なぞ。丑松は一々|内部《なか》を好く改めて見て、蔵書の印がはりに捺《お》して置いた自分の認印《みとめ》を消して了つた。ほかに、床の間に置並べた語学の参考書の中から、五六冊不要なのを抜取つて、塵埃《
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