ど、切ない思を為たためしは無い。奥様を始め、お志保、省吾なぞは既に本堂へ上つて、北の間の隅のところに集つて居た。見れば中の間から南の間へかけて、男女《をとこをんな》の信徒、あそこに一団《ひとかたまり》、こゝにも一団、思ひ/\に挨拶したり話したりする声は、忍んではするものゝ、何となく賑に面白く聞える。庄馬鹿が、自慢の羽織を折目正しく着飾つて、是見《これみ》よがしに人々のなかを分けて歩くのも、をかしかつた。其取澄ました様子を見て、奥様も笑へば、お志保も笑つた。丁度丑松の座つたところは、永代読経として寄附の金高と姓名とを張出してある古壁の側、お志保も近くて、髪の香が心地よくかをりかゝる。提灯の影は花やかに本堂の夜の空気を照らして、一層その横顔を若々しくして見せた。何といふ親しげな有様だらう、あの省吾を背後《うしろ》から抱いて、すこし微笑《ほゝゑ》んで居る姉らしい姿は。斯う考へて、丑松はお志保の方を熟視《みまも》る度《たび》に、言ふに言はれぬ楽しさを覚えるのであつた。
 説教の始まるには未だ少許《すこし》間が有つた。其時文平もやつて来て、先づ奥様に挨拶し、お志保に挨拶し、省吾に挨拶し、それから丑松に挨拶した。あゝ、嫌な奴が来た、と心に思ふばかりでも、丑松の空想は忽ち掻乱《かきみだ》されて、慄《ぞつ》とするやうな現実の世界へ帰るさへあるに、加之《おまけに》、文平が忸々敷《なれ/\し》い調子で奥様に話しかけたり、お志保や省吾を笑はせたりするのを見ると、丑松はもう腹立たしく成る。斯うした女子供のなかで談話《はなし》をさせると、実に文平は調子づいて来る男で、一寸したことをいかにも尤《もつと》もらしく言ひこなして聞かせる。それに、この男の巧者なことには、妙に人懐《ひとなつ》こい、女の心を※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《ひきつ》けるやうなところが有つて、正味自分の価値《ねうち》よりは其を二倍にも三倍にもして見せた。万事深く蔵《つゝ》んで居るやうな丑松に比べると、親切は反《かへ》つて文平の方にあるかと思はせる位。丑松は別に誰の機嫌を取るでも無かつた――いや、省吾の方には優《やさ》しくしても、お志保に対する素振を見ると寧《いつ》そ冷淡《つれない》としか受取れなかつたのである。
『瀬川君、奈何《どう》です、今日の長野新聞は。』
 と文平は低声《こごゑ》で誘《かま》をかけるやうに言出した。
『長野新聞?』と丑松は考深い目付をして、『今日は未だ読んで見ません。』
『そいつは不思議だ――君が読まないといふのは不思議だ。』
『何故《なぜ》?』
『だつて、君のやうに猪子先生を崇拝して居ながら、あの演説の筆記を読まないといふのは不思議だからサ。まあ、是非読んで見たまへ。それに、あの新聞の評が面白い。猪子先生のことを、「新平民中の獅子」だなんて――巧いことを言ふ記者が居るぢやあないか。』
 斯う口では言ふものゝ、文平の腹の中では何を考へて居るか、と丑松は深く先方《さき》の様子を疑つた。お志保はまた熱心に耳を傾けて、二人の顔を見比べて居たのである。
『猪子先生の議論は兎《と》に角《かく》、あの意気には感服するよ。』と文平は言葉を継いで、『あの演説の筆記を見たら、猪子先生の書いたものを読んで見たくなつた。まあ君は審《くは》しいと思ふから、其で聞くんだが、あの先生の著述では何が一番傑作と言はれるのかね。』
『どうも僕には解らないねえ。』斯う丑松は答へた。
『いや、戯語《じようだん》ぢや無いよ――実際、君、僕は穢多といふものに興味を持つて来た。あの先生のやうな人物が出るんだから、確に研究して見る価値《ねうち》は有るに相違ない。まあ、君だつても、其で「懴悔録」なぞを読む気に成つたんだらう。』と文平は嘲《あざけ》るやうな語気で言つた。
 丑松は笑つて答へなかつた。流石《さすが》にお志保の居る側で、穢多といふ言葉が繰返された時は、丑松はもう顔色を変へて、自分で自分を制へることが出来なかつたのである。怒気《いかり》と畏怖《おそれ》とはかはる/″\丑松の口唇《くちびる》に浮んだ。文平は又、鋭い目付をして、其微細な表情までも見泄《みも》らすまいとする。『御気の毒だが――左様《さう》君のやうに隠したつても無駄だよ』と斯う文平の目が言ふやうにも見えた。
『瀬川君、何か君のところには彼の先生のものが有るだらう。何でも好いから僕に一冊貸して呉れ給へな。』
『無いよ――何にも僕のところには無いよ。』
『無い? 無いツてことがあるものか。君の許《ところ》に無いツてことがあるものか。なにも左様《さう》隠さないで、一冊位貸して呉れたつて好ささうなものぢやないか。』
『いや、僕は隠しやしない。無いから無いと言ふんさ。』
 遽然《にはかに》、蓮華寺の住職が説教の座へ上つたので、二人はそれぎり口を噤んで了つた。人々はいづれも座《すわ》り直したり、容《かたち》を改めたりした。

       (四)

 住職は奥様と同年《おないどし》といふ。男のことであるから割合に若々しく、墨染《すみぞめ》の法衣《ころも》に金襴《きんらん》の袈裟《けさ》を掛け、外陣の講座の上に顕はれたところは、佐久小県辺《さくちひさがたあたり》に多い世間的な僧侶に比べると、遙《はる》かに高尚な宗教生活を送つて来た人らしい。額広く、鼻隆く、眉すこし迫つて、容貌《おもばせ》もなか/\立派な上に、温和な、善良な、且つ才智のある性質を好く表して居る。法話の第一部は猿の比喩《たとへ》で始まつた。智識のある猿は世に知らないといふことが無い。よく学び、よく覚え、殊に多くの経文を暗誦して、万人の師匠とも成るべき程の学問を蓄はへた。畜生の悲しさには、唯だ一つ信ずる力を欠いた。人は、よし是猿ほどの智識が無いにもせよ、信ずる力あつて、はじめて凡夫も仏の境には到り得る。なんと各々位《おの/\がた》、合点か。人間と生れた宿世《すくせ》のありがたさを考へて、朝夕念仏を怠り給ふな。斯《か》う住職は説出したのである。
『なむあみだぶ、なむあみだぶ。』
 と人々の唱へる声は本堂の広間に満ち溢れた。男も、女も、懐中《ふところ》から紙入を取出して、思ひ/\に賽銭《さいせん》を畳の上へ置くのであつた。
 法話の第二部は、昔の飯山の城主、松平遠江守の事蹟を材《たね》に取つた。そも/\飯山が仏教の地と成つたは、斯の先祖の時代からである。火のやうな守《かみ》の宗教心は未だ年若な頃からして燃えた。丁度江戸表へ参勤の時のこと、日頃|欝積《むすぼ》れて解けない胸中の疑問を人々に尋ね試みたことがある。『人は死んで、畢竟《つまり》奈何《どう》なる。』侍臣も、儒者も、斯問《このとひ》には答へることが出来なかつた。林|大学《だいがく》の頭《かみ》に尋ねた。大学の頭ですらも。それから守は宗教に志し、渋谷の僧に就いて道を聞き、領地をば甥《をひ》に譲り、六年目の暁に出家して、飯山にある仏教の先祖《おや》と成つたといふ。なんと斯|発心《ほつしん》の歴史は味《あぢはひ》のある話ではないか。世の多くの学者が答へることの出来ない、其難問に答へ得るものは、信心あるものより外に無い。斯う住職は説き進んだのである。
『なむあみだぶ、なむあみだぶ。』
 一斉に唱へる声は風のやうに起つた。人々は復《ま》た賽銭を取出して並べた。
 斯ういふ説教の間にも、時々丑松は我を忘れて、熱心な眸《ひとみ》をお志保の横顔に注いだ。流石《さすが》に人目を憚《はゞか》つて見まい/\と思ひ乍らも、つい見ると、仏壇の方を眺め入つたお志保の目付の若々しさ。不思議なことには、熱い涙が人知れず其顔を流れるといふ様子で、時々|啜《すゝ》り上げたり、密《そつ》と鼻を拭《か》んだりした。尚よく見ると、言ふに言はれぬ恐怖《おそれ》と悲愁《うれひ》とが女らしい愛らしさに交つて、陰影《かげ》のやうに顕《あらは》れたり、隠れたりする。何をお志保は考へたのだらう。何を感じたのだらう。何を思出したのだらう。斯《か》う丑松は推量した。今夜の法話が左様《さう》若い人の心を動かすとも受取れない。有体《ありてい》に言へば、住職の説教はもう旧《ふる》い、旧い遣方で、明治生れの人間の耳には寧《いつ》そ異様に響くのである。型に入つた仮白《せりふ》のやうな言廻し、秩序の無い断片的な思想、金色に光り輝く仏壇の背景――丁度それは時代な劇《しばゐ》でも観て居るかのやうな感想《かんじ》を与へる。若いものが彼様《あゝ》いふ話を聴いて、其程胸を打たれようとは、奈何《どう》しても思はれなかつたのである。
 省吾はそろ/\眠くなつたと見え、姉に倚凭《よりかゝ》つた儘《まゝ》、首を垂れて了《しま》つた。お志保はいろ/\に取賺《とりすか》して、動《ゆす》つて見たり、私語《さゝや》いて見たりしたが、一向に感覚が無いらしい。
『これ――もうすこし起きておいでなさいよ。他様《ひとさま》が見て笑ふぢや有《あり》ませんか。』と叱るやうに言つた。奥様は引取つて、
『其処へ寝かして置くが可《いゝ》やね。ナニ、子供のことだもの。』
『真実《ほんと》に未《ま》だ児童《ねんねえ》で仕方が有ません。』
 斯う言つて、お志保は省吾を抱直した。殆んど省吾は何にも知らないらしい。其時丑松が顔を差出したので、お志保も是方《こちら》を振向いた。お志保は文平を見て、奥様を見て、それから丑松を見て、紅《あか》くなつた。

       (五)

 法話の第三部は白隠に関する伝説を主にしたものであつた。昔、飯山の正受菴《しやうじゆあん》に恵端禅師といふ高僧が住んだ。白隠が斯の人を尋ねて、飯山へやつて来たのは、まだ道を求めて居る頃。参禅して教を聴く積りで、来て見ると、掻集めた木葉《このは》を背負ひ乍らとぼ/\と谷間《たにあひ》を帰つて来る人がある。散切頭《ざんぎりあたま》に、髯《ひげ》茫々《ばう/\》。それと見た白隠は切込んで行つた。『そもさん。』斯《か》ういふ熱心は、漸《やうや》く三回目に、恵端の為に認められたといふ。それから朝夕師として侍《かしづ》いて居たが、さて終《しまひ》には、白隠も問答に究して了《しま》つた。究するといふよりは、絶望して了つた。あゝ、彼様《あん》な問を出すのは狂人《きちがひ》だ、と斯う師匠のことを考へるやうに成つて、苦しさのあまりに其処を飛出したのである。思案に暮れ乍ら、白隠は飯山の町はづれを辿つた。丁度|収穫《とりいれ》の頃で、堆高《うづだか》く積上げた穀物の傍に仆《たふ》れて居ると、農夫の打つ槌《つち》は誤つて斯《こ》の求道者を絶息させた。夜露が口に入る、目が覚める、蘇生《いきかへ》ると同時に、白隠は悟つた。一説に、彼は町はづれで油売に衝当《つきあた》つて、其油に滑つて、悟つたともいふ。静観庵《じやうくわんあん》として今日迄残つて居るのは、この白隠の大悟した場処を記念する為に建てられたものである。
 斯の伝説は兎《と》に角《かく》若いものゝ知らないことであつた。それから自分の意見を述べて、いよ/\結末《くゝり》といふ段になると、毎時《いつも》住職は同じやうな説教の型に陥る。自力で道に入るといふことは、白隠のやうな人物ですら容易で無い。吾他力宗は単純《ひとへ》に頼むのだ。信ずるのだ。導かれるのだ。凡夫の身をもつて達するのだ。呉々も自己《おのれ》を捨てゝ、阿弥陀如来《あみだによらい》を頼み奉るの外は無い。斯う住職は説き終つた。
『なむあみだぶ、なむあみだぶ。』
 と人々の唱へる声は暫時《しばらく》止まなかつた。多くの賽銭はまた畳の上に集つた。お志保も殊勝らしく掌《て》を合せて、奥様と一緒に唱へて居たが、涙は其若い頬を伝つて絶間《とめど》も無く流れ落ちたのである。
 やがて聴衆は珠数を提《さ》げて帰つて行つた。奥様も、お志保も、今は座を離れて、円柱の側に佇立《たゝず》み乍ら、人々に挨拶したり見送つたりした。雪がまた降つて来たといふので、本堂の入口は酷《ひど》く雑踏する。女連は多く後になつた。殊に思ひ/\の風俗して、時の流行《はやり》に後れまいとする町の娘の有様は、深く/\お志保の注意を引くので
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