から其方へ飛込んで了つたものは、今となつて見ると最早《もう》奈何することも出来ません。第一、今日の政事家で政論に衣食するものが幾人《いくたり》ありませう。実際|吾儕《わたしども》の内幕は御話にならない。まあ、斯様《こん》なことを申上げたら、嘘のやうだと思召すかも知れませんが、正直な御話が――代議士にでもして頂くより外《ほか》に、さしあたり吾儕の食ふ道は無いのです。はゝゝゝゝ。何と申したつて、事実は事実ですから情ない。もし私が今度の選挙に失敗すれば、最早につちもさつちもいかなくなる。どうしても此際《こゝ》のところでは出るやうにして頂かなければならない。どうしても貴方に助けて頂かなければならない。それには先づ貴方に御縋《おすが》り申して、家内のことを世間の人に御話下さらないやうに。そのかはり、私も亦《また》、貴方のことを――それ、そこは御相談で、御互様に言はないといふやうなことに――何卒《どうか》、まあ、私を救ふと思召《おぼしめ》して、是話《このはなし》を聞いて頂きたいのです。瀬川さん、是は私が一生の御願ひです。』
 急に高柳は白い毛布を離れて、畳の上へ手を突いた。丁度|哀憐《あはれみ》をもとめる犬のやうに、丑松の前に平身低頭したのである。
 丑松はすこし蒼《あをざ》めて、
『どうも左様《さう》貴方のやうに、独りで物を断《き》めて了《しま》つては――』
『いや、是非とも私を助けると思召して。』
『まあ、私の言ふことも聞いて下さい。どうも貴方の御話は私に合点《がてん》が行きません。だつて、左様《さう》ぢや有ますまいか。なにも貴方等《あなたがた》のことを私が世間の人に話す必要も無いぢや有ませんか。全く、私は貴方等と何の関係も無い人間なんですから。』
『でも御座《ござい》ませうが――』
『いえ、其では困ります。何も私は貴方等を御助け申すやうなことは無し、私は亦《また》、貴方等から助けて頂くやうなことも無いのですから。』
『では?』
『ではとは?』
『畢竟《つまり》そんなら奈何して下さるといふ御考へなんですか。』
『どうするも斯《か》うするも無いぢや有ませんか。貴方と私とは全く無関係――はゝゝゝゝ、御話は其丈《それだけ》です。』
『無関係と仰ると?』
『是迄《これまで》だつて、私は貴方のことに就いて、何《なんに》も世間の人に話した覚は無し、是から将来《さき》だつても矢張《やはり》其通り、何も話す必要は有ません。一体、私は左様|他人《ひと》のことを喋舌《しやべ》るのが嫌ひです――まして、貴方とは今日始めて御目に懸つたばかりで――』
『そりやあ成程、私のことを御話し下さる必要は無いかも知れません。私も貴方のことを他人《ひと》に言ふ必要は無いのです。必要は無いのですが――どうも其では何となく物足りないやうな心地《こゝろもち》が致しまして。折角《せつかく》私も斯うして出ましたものですから、十分に御意見を伺つた上で、御為に成るものなら成りたいと存じて居りますのです。実は――左様した方が、貴方の御為かとも。』
『いや、御親切は誠に難有いですが、其様《そんな》にして頂く覚は無いのですから。』
『しかし、私が斯うして御話に出ましたら、万更《まんざら》貴方だつて思当ることが無くも御座《ござい》ますまい。』
『それが貴方の誤解です。』
『誤解でせうか――誤解と仰ることが出来ませうか。』
『だつて、私は何《なんに》も知らないんですから。』
『まあ、左様《さう》仰れば其迄ですが――でも、何とか、そこのところは御相談の為やうが有さうなもの。悪いことは申しません。御互ひの身の為です。決して誰の為でも無いのです。瀬川さん――いづれ復《ま》た私も御邪魔に伺ひますから、何卒《どうか》克《よ》く考へて御置きなすつて下さい。』


   第拾四章

       (一)

 月曜の朝早く校長は小学校へ出勤した。応接室の側の一間を自分の室と定めて、毎朝授業の始まる前には、必ず其処に閉籠《とぢこも》るのが癖。それは一日の事務の準備《したく》をする為でもあつたが、又一つには職員|等《たち》の不平と煙草の臭気《にほひ》とを避ける為で。丁度其朝は丑松も久し振の出勤。校長は丑松に逢つて、忌服中のことを尋ねたり、話したりして、軈てまた例の室に閉籠つた。
 この室の戸を叩《たゝ》くものが有る。其音で、直に校長は勝野文平といふことを知つた。いつも斯ういふ風にして、校長は斯《こ》の鍾愛《きにいり》の教員から、さま/″\の秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口、其他時間割と月給とに関する五月蠅《うるさい》ほどの嫉《ねた》みと争ひとは、是処《こゝ》に居て手に取るやうに解るのである。其朝も亦、何か新しい注進を齎《もたら》して来たのであらう、斯う思ひ乍ら、校長は文平を室の内へ導いたのであつた。
 いつの間にか二人は丑松の噂《うはさ》を始めた。
『勝野君。』と校長は声を低くして、『君は今、妙なことを言つたね――何か瀬川君のことに就いて新しい事実を発見したとか言つたね。』
『はあ。』と文平は微笑《ほゝゑ》んで見せる。
『どうも君の話は解りにくゝて困るよ。何時でも遠廻しに匂はせてばかり居るから。』
『だつて、校長先生、人の一生の名誉に関《かゝ》はるやうなことを、左様《さう》迂濶《うくわつ》には喋舌《しやべ》れないぢや有ませんか。』
『ホウ、一生の名誉に?』
『まあ、私の聞いたのが事実だとして、其が斯の町へ知れ渡つたら、恐らく瀬川君は学校に居られなくなるでせうよ。学校に居られないばかりぢや無い、あるひは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなるかも知れません。』
『へえ――学校にも居られなくなる、社会からも放逐される、と言へば君、非常なことだ。それでは宛然《まるで》死刑を宣告されるも同じだ。』
『先《ま》づ左様《さう》言つたやうなものでせうよ。尤も、私が直接《ぢか》に突留めたといふ訳でも無いのですが、種々《いろ/\》なことを綜《あつ》めて考へて見ますと――ふふ。』
『ふゝぢや解らないねえ。奈何《どん》な新しい事実か、まあ話して聞かせて呉れ給へ。』
『しかし、校長先生、私から其様《そん》な話が出たといふことになりますと、すこし私も迷惑します。』
『何故《なぜ》?』
『何故ツて、左様ぢや有ませんか。私が取つて代りたい為に、其様なことを言ひ触らしたと思はれても厭ですから――毛頭私は其様な野心が無いんですから――なにも瀬川君を中傷する為に、御話するのでは無いんですから。』
『解つてますよ、其様なことは。誰が君、其様なことを言ふもんですか。其様な心配が要るもんですか。君だつても他の人から聞いたことなんでせう――それ、見たまへ。』
 文平が思はせ振な様子をして、何か意味ありげに微笑めば微笑むほど、余計に校長は聞かずに居られなくなつた。
『では、勝野君、斯ういふことにしたら可《いゝ》でせう。我輩は其話を君から聞かない分にして置いたら可《いゝ》でせう。さ、誰も居ませんから、話して聞かせて呉れ給へ。』
 斯う言つて、校長は一寸文平に耳を貸した。文平が口を寄せて、何か私語《さゝや》いて聞かせた時は、見る/\校長も顔色を変へて了《しま》つた。急に戸を叩く音がする。ついと文平は校長の側を離れて窓の方へ行つた。戸を開けて入つて来たのは丑松で、入るや否や思はず一歩《ひとあし》逡巡《あとずさり》した。
『何を話して居たのだらう、斯《こ》の二人は。』と丑松は猜疑深《うたぐりぶか》い目付をして、二人の様子を怪まずには居られなかつたのである。
『校長先生、』と丑松は何気なく尋ねて見た。『どうでせう、今日はすこし遅く始めましたら。』
『左様《さやう》――生徒は未《ま》だ集りませんか。』と校長は懐中時計を取出して眺める。
『どうも思ふやうに集りません。何を言つても、是雪ですから。』
『しかし、最早《もう》時間は来ました。生徒の集る、集らないは兎《と》に角《かく》、規則といふものが第一です。何卒《どうぞ》小使に左様言つて、鈴を鳴らさせて下さい。』

       (二)

 其朝ほど無思想な状態《ありさま》で居たことは、今迄丑松の経験にも無いのであつた。実際其朝は半分眠り乍ら羽織袴を着けて来た。奥様が詰て呉れた弁当を提げて、久し振で学校の方へ雪道を辿《たど》つた時も、多くの教員仲間から弔辞《くやみ》を受けた時も、受持の高等四年生に取囲《とりま》かれて種々《いろ/\》なことを尋ねられた時も、丑松は半分眠り乍ら話した。授業が始つてからも、時々|眼前《めのまへ》の事物《ことがら》に興味を失つて、器械のやうに読本の講釈をして聞かせたり、生徒の質問に答へたりした。其日は遊戯の時間の監督にあたる日、鈴が鳴つて休みに成る度に、男女の生徒は四方から丑松に取縋《とりすが》つて、『先生、先生』と呼んだり叫んだりしたが、何を話して何を答へたやら、殆んど其感覚が無かつた位。丑松は夢見る人のやうに歩いて、あちこちと馳せちがふ多くの生徒の監督をした。
 銀之助が駈寄つて、
『瀬川君――君は気分でも悪いと見えるね。』
 と言つたのは覚えて居るが、其他の話はすべて記憶に残らなかつた。
 斯《か》ういふ中にも、唯一つ、あの省吾に呉れたいと思つて、用意したものを持つて来ることだけは忘れなかつた。昼休みには、高等科から尋常科までの生徒が学校の内で飛んだり跳ねたりして騒いだ。なかには広い運動場に出て、雪投げをして遊ぶものもあつた。丁度高等四年の教室には誰も居なかつたので、そこへ丑松は省吾を連れて行つて、新聞紙に包んだものを取出して見せて、
『君に呈《あ》げようと思つて斯ういふものを持つて来ました。帳面です、内に入つてるのは。是《これ》は君、家へ帰つてから開けて見るんですよ。いいかね。学校の内で開けて見るんぢや無いんですよ――ね、是を君に呈げますから。』
 と言つて、丑松は自分の前に立つ少年の驚き喜ぶ顔を見たいと思ふのであつた。意外にも省吾は斯の贈物を受けなかつた。唯もう目を円《まる》くして、丑松の様子と新聞紙の包とを見比べるばかり。奈何《どう》して斯様《こん》なものを呉れるのであらう。第一、それからして不思議でならない。と言つたやうな顔付。
『いゝえ、私は沢山です。』
 と省吾は幾度か辞退した。
『其様《そん》な、君のやうな――』と丑松は省吾の顔を眺めて、『人が呈《あ》げるツて言ふものは、貰ふもんですよ。』
『はい、難有う。』と復た省吾は辞退した。
『困るぢやないか、君、折角《せつかく》呈げようと思つて斯うして持つて来たものを。』
『でも、母さんに叱られやす。』
『母さんに? 其様な馬鹿なことが有るもんか。私が呈げるツて言ふのに、叱るなんて――私は君の父上《おとつ》さんとも懇意だし、それに、君の姉さんには種々《いろ/\》御世話に成つて居るし、此頃《こなひだ》から呈げよう/\と思つて居たんです。ホラ、よく西洋綴の帳面で、罫の引いたのが有ませう。あれですよ、斯の内に入つてるのは。まあ、君、其様《そん》なことを言はないで、是を家へ持つて帰つて、作文でも何でも君の好なものを書いて見て呉れたまへ。』
 斯う言つて、其を省吾の手に持たして居るところへ、急に窓の外の方で上草履の音が起る。丑松は省吾を其処に残して置いて、周章《あわ》てゝ教室を出て了つた。

       (三)

 東の廊下の突当り、二階へ通ふやうになつて居る階段のところは、あまり生徒もやつて来なかつた。丑松が男女の少年の監督に忙《せは》しい間に、校長と文平の二人は斯《こ》の静かな廊下で話した――並んで灰色の壁に倚凭《よりかゝ》り乍《なが》ら話した。
『一体、君は誰から瀬川君のことを聞いて来たのかね。』と校長は尋ねて見た。
『妙な人から聞いて来ました。』と文平は笑つて、『実に妙な人から――』
『どうも我輩には見当がつかない。』
『尤も、人の名誉にも関はることだから、話だけは為《す》るが、名前を出して呉れては困る、と先方《さき》の人も言ふんです。兎《と》に角《かく》代議士にでも成らうといふ位の人物です
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