、御敷下さい。』と丑松は快濶《くわいくわつ》らしく、『どうも失礼しました。実は昨晩遅かつたものですから、寝過して了《しま》ひまして。』
『いや、私こそ――御疲労《おつかれ》のところへ。』と高柳は如才ない調子で言つた。『昨日《さくじつ》は舟の中で御一緒に成ました時に、何とか御挨拶を申上げようか、申上げなければ済まないが、と斯《か》う存じましたのですが、あんな処で御挨拶しますのも反《かへ》つて失礼と存じまして――御見懸け申し乍ら、つい御無礼を。』
 丁度取引でも為るやうな風に、高柳は話し出した。しかし、愛嬌《あいけう》のある、明白《てきぱき》した物の言振《いひぶり》は、何処かに人を※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《ひきつ》けるところが無いでもない。隆とした其|風采《なりふり》を眺めたばかりでも、いかに斯の新進の政事家が虚栄心の為に燃えて居るかを想起《おもひおこ》させる。角帯に纏ひつけた時計の鎖は富豪の身を飾ると同じやうなもの。それに指輪は二つまで嵌《は》めて、いづれも純金の色に光り輝いた。『何の為に尋ねて来たのだらう、是男は。』と斯う丑松は心に繰返して、対手の暗い秘密を自分の身に思比べた時は、長く目と目を見合せることも出来ない位。
 高柳は膝を進めて、
『承りますれば御不幸が御有なすつたさうですな。さぞ御力落しでいらつしやいませう。』
『はい。』と丑松は自分の手を眺め乍ら答へた。『飛んだ災難に遭遇《であひ》まして、到頭|阿爺《おやぢ》も亡《な》くなりました。』
『それは奈何《どう》も御気の毒なことを。』と言つて、急に高柳は思ひついたやうに、『むゝ、左様々々《さう/\》、此頃《こなひだ》も貴方と豊野の停車場《ステーション》で御一緒に成つて、それから私が田中で下りる、貴方も御下りなさる――左様でしたらう、ホラ貴方も田中で御下りなさる。丁度彼の時が御帰省の途中だつたんでせう。して見ると、貴方と私とは、往きも、還りも御一緒――はゝゝゝゝ。何か斯う克《よ》く/\の因縁《いんねん》づくとでも、まあ、申して見たいぢや有ませんか。』
 丑松は答へなかつた。
『そこです。』と高柳は言葉に力を入れて、『御縁が有ると思へばこそ、斯《か》うして御話も申上げるのですが――実は、貴方の御心情に就きましても、御察し申して居ることも有ますし。』
『え?』と丑松は対手《あひて》の言葉を遮《さへぎ》つた。
『そりやあもう御察し申して居ることも有ますし、又、私の方から言ひましても、少許《すこし》は察して頂きたいと思ひまして、それで御邪魔に出ましたやうな訳なんで。』
『どうも貴方の仰《おつしや》ることは私に能く解りません。』
『まあ、聞いて下さい――』
『ですけれど、どうも貴方の御話の意味が汲取れないんですから。』
『そこを察して頂きたいと言ふのです。』と言つて、高柳は一段声を低くして、『御聞及びでも御座《ござい》ませうが、私も――世話して呉れるものが有まして――家内を迎へました。まあ、世の中には妙なことが有るもので、あの家内の奴が好く貴方を御知り申して居るのです。』
『はゝゝゝゝ、奥様《おくさん》が私を御存じなんですか。』と言つて丑松は少許《すこし》調子を変へて、『しかし、それが奈何《どう》しました。』
『ですから私も御話に出ましたやうな訳なんで。』
『と仰ると?』
『まあ、家内なぞの言ふことですから、何が何だか解りませんけれど――実際、女の話といふものは取留の無いやうなものですからなあ――しかし、不思議なことには、彼奴《あいつ》の家《うち》の遠い親類に当るものとかが、貴方の阿爺《おとつ》さんと昔御懇意であつたとか。』斯《か》う言つて、高柳は熱心に丑松の様子を窺《うかゞ》ふやうにして見て、『いや、其様《そん》なことは、まあ奈何でもいゝと致しまして、家内が貴方を御知り申して居ると言ひましたら、貴方だつても御聞流しには出来ますまいし、私も亦た私で、どうも不安心に思ふことが有るものですから――実は、昨晩は、その事を考へて、一睡も致しませんでした。』
 暫時《しばらく》部屋の内には声が無かつた。二人は互ひに捜《さぐ》りを入れるやうな目付して、無言の儘《まゝ》で相対して居たのである。
『噫《あゝ》。』と高柳は投げるやうに嘆息した。『斯様《こん》な御話を申上げに参るといふのは、克《よ》く/\だと思つて頂きたいのです。貴方より外に吾儕《わたしども》夫婦《ふうふ》のことを知つてるものは無し、又、吾儕夫婦より外に貴方のことを知つてるものは有ません――ですから、そこは御互ひ様に――まあ、瀬川さん左様《さう》ぢや有ませんか。』と言つて、すこし調子を変へて、『御承知の通り、選挙も近いてまゐりました。どうしても此際《こゝ》のところでは貴方に助けて頂かなければならない。もし私の言ふことを聞いて下さらないとすれば、私は今、こゝで貴方と刺しちがへて死にます――はゝゝゝゝ、まさか貴方の性命《いのち》を頂くとも申しませんがね、まあ、私は其程の決心で参つたのです。』

       (三)

 其時、楼梯《はしごだん》を上つて来る人の足音がしたので、急に高柳は口を噤《つぐ》んで了《しま》つた。『瀬川先生、御客様《おきやくさん》でやすよ。』と呼ぶ袈裟治の声を聞きつけて、ついと丑松は座を離れた。唐紙を開けて見ると、もうそこへ友達が微笑み乍ら立つて居たのである。
『おゝ、土屋君か。』
 と思はず丑松は溜息を吐いた。
 銀之助は一寸高柳に会釈《ゑしやく》して、別に左様《さう》主客の様子を気に留めるでもなく、何か用事でも有るのだらう位に、例の早合点から独り定めに定めて、
『昨夜君は帰つて来たさうだね。』
 と慣々《なれ/\》しい調子で話し出した。相変らず快活なは斯の人。それに遠からず今の勤務《つとめ》を廃《や》めて、農科大学の助手として出掛けるといふ、その希望《のぞみ》が胸の中に溢《あふ》れるかして、血肥りのした顔の面は一層活々と輝いた。妙なもので、短く五分刈にして居る散髪頭が反《かへ》つて若い学者らしい威厳を加へたやうに見える。友達ながらに一段の難有《ありがた》みが出来た。丑松は何となく圧倒《けおさ》れるやうにも感じたのである。
 心の底から思ひやる深い真情を外に流露《あらは》して、銀之助は弔辞《くやみ》を述べた。高柳は煙草を燻し/\黙つて二人の談話《はなし》を聞いて居た。
『留守中はいろ/\難有う。』と丑松は自分で自分を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》ますやうにして、『学校の方も君がやつて呉れたさうだねえ。』
『あゝ、左《どう》にか右《かう》にか間に合せて置いた。二級懸持ちといふやつは巧くいかないものでねえ。』と言つて、銀之助は恰《さ》も心《しん》から出たやうに笑つて、『時に、君は奈何《どう》する。』
『奈何するとは?』
『親の忌服だもの、四週間位は休ませて貰ふサ。』
『左様もいかない。学校の方だつて都合があらあね。第一、君が迷惑する。』
『なに、僕の方は関はないよ。』
『明日は月曜だねえ。兎《と》に角《かく》明日は出掛けよう。それはさうと、土屋君、いよ/\君の希望《のぞみ》も達したといふぢやないか。君から彼《あの》手紙を貰つた時は、実に嬉しかつた。彼様《あんな》に早く進行《はかど》らうとは思はなかつた。』
『ふゝ、』と銀之助は思出し笑ひをして、『まあ、御蔭でうまくいつた。』
『実際うまくいつたよ。』と友達の成功を悦《よろこ》ぶ傍から、丑松は何か思ひついたやうに萎《しを》れて、『県庁の方からは最早《もう》辞令が下つたかね。』
『いゝや、辞令は未だ。尤《もつと》も義務年限といふやつが有るんだから、ただ廃《や》めて行く訳にはいかない。そこは県庁でも余程|斟酌《しんしやく》して呉れてね、百円足らずの金を納めろと言ふのさ。』
『百円足らず?』
『よしんば在学中の費用を皆な出せと言はれたつて仕方が無い。其位のことで勘免《かんべん》して呉れたのは、実に難有い。早速|阿爺《おやぢ》の方へ請求《ねだ》つてやつたら、阿爺も君、非常に喜んでね、自身で長野迄出掛けて来るさうだ。いづれ、其内には沙汰があるだらうと思ふよ。まあ、君と斯《か》うして飯山に居るのも、今月一ぱい位のものだ。』
 斯う言つて銀之助は今更のやうに丑松の顔を眺めた。丑松は深い溜息を吐《つ》いて居た。
『別の話だが、』と銀之助は言葉を継《つ》いで、『君の好な猪子先生――ホラ、あの先生が信州へ来てるさうだねえ。昨日僕は新聞で読んだ。』
『新聞で?』丑松の頬は燃え輝いたのである。
『あゝ、信毎に出て居た。肺病だといふけれど、熾盛《さかん》な元気の人だねえ。』
 と蓮太郎の噂《うはさ》が出たので、急に高柳は鋭い眸《ひとみ》を銀之助の方へ注いだ。丑松は無言であつた。
『穢多もなか/\馬鹿にならんよ。』と銀之助は頓着なく、『まあ、思想《かんがへ》から言へば、多少病的かも知れないが、しかし進んで戦ふ彼《あ》の勇気には感服する。一体、肺病患者といふものは彼様《あゝ》いふものか知らん。彼の先生の演説を聞くと、非常に打たれるさうだ。』と言つて気を変へて、『まあ、瀬川君なぞは聞かない方が可《いゝ》よ――聞けば復《ま》た病気が発《おこ》るに極《きま》つてるから。』
『馬鹿言ひたまへ。』
『あはゝゝゝゝ。』
 と銀之助は反返《そりかへ》つて笑つた。
 遽然《にはかに》丑松は黙つて了つた。丁度、喪心した人のやうに成つた。丁度、身体中の機関《だうぐ》が一時に動作《はたらき》を止めて、斯うして生きて居ることすら忘れたかのやうであつた。
『奈何したんだらう、また瀬川君は――相変らず身体の具合でも悪いのかしら。』と斯う銀之助は自分で自分に言つて見た。やゝしばらく三人は無言の儘で相対して居た。『今日は僕は是で失敬する。』と銀之助が言出した時は、丑松も我に帰つて、『まあ、いゝぢやないか』を繰返したのである。
『いや、復《ま》た来る。』
 銀之助は出て行つて了つた。

       (四)

『只今《たゞいま》猪子といふ方の御話が出ましたが、』と高柳は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。『あの、何ですか、瀬川さんは彼《あ》の方と御懇意でいらつしやるんですか。』
『いゝえ。』と丑松はすこし言淀《いひよど》んで、『別に、懇意でも有ません。』
『では、何か御関係が御有なさるんですか。』
『何も関係は有ません。』
『左様《さやう》ですか――』
『だつて関係の有やうが無いぢやありませんか、懇意でも何でも無い人に。』
『左様《さう》仰れば、まあ、そんなものですけれど。はゝゝゝゝ。彼の方は市村君と御一緒のやうですから、奈何《どう》いふ御縁故か、もし貴方が御存じならば伺つて見たいと思ひまして。』
『知りません、私は。』
『市村といふ弁護士も、あれでなか/\食へない男なんです。彼様《あん》な立派なことを言つて居ましても、畢竟《つまり》猪子といふ人を抱きこんで、道具に使用《つか》ふといふ腹に相違ないんです。彼の男が高尚らしいやうなことを言ふかと思ふと、私は噴飯《ふきだ》したくなる。そりやあもう、政事屋なんてものは皆な穢《きたな》い商売人ですからなあ――まあ、其道のもので無ければ、可厭《いや》な内幕も克《よ》く解りますまいけれど。』
 斯う言つて、高柳は嘆息して、
『私とても、斯うして何時まで政界に泳いで居る積りは無いのです。一日も早く足を洗ひたいといふ考へでは有るのです。如何《いかん》せん、素養は無し、貴方等《あなたがた》のやうに規則的な教育を享《う》けたでは無し、それで此の生存競争の社会《よのなか》に立たうといふのですから、勢ひ常道を踏んでは居られなくなる。あるひは、貴方等の目から御覧に成つたらば、吾儕《わたしども》の事業《しごと》は華麗《はで》でせう。成程《なるほど》、表面《うはべ》は華麗です。しかし、これほど表面が華麗で、裏面《うら》の悲惨な生涯《しやうがい》は他に有ませうか。あゝ、非常な財産が有つて、道楽に政事でもやつて見ようといふ人は格別、吾儕のやうに政事熱に浮かされて、青年時代
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