避けして、愛宕《あたご》町をさして急いで行かうとすると、不図《ふと》途中で一人の少年に出逢《であ》つた。近いて見ると、それは省吾で、何か斯う酒の罎《びん》のやうなものを提げて、寒さうに慄《ふる》へ乍《なが》らやつて来た。
『あれ、瀬川先生。』と省吾は嬉しさうに馳寄《かけよ》つて、『まあ、魂消《たまげ》た――それでも先生の早かつたこと。私はまだ/\容易に帰りなさらないかと思ひやしたよ。』
 好く言つて呉れた。斯の無邪気な少年の驚喜した顔付を眺《なが》めると、丑松は最早《もう》あのお志保に逢ふやうな心地《こゝろもち》がしたのである。
『君は――お使かね。』
『はあ。』
 と省吾は黒ずんだ色の罎を出して見せる。出して見せ乍ら、笑つた。
 果して父の為に酒を買つて帰つて行くところであつた。『此頃《こなひだ》は御手紙を難有う。』斯《か》う丑松は礼を述べて、一寸学校の様子を聞いた。自分が留守の間、毎日誰か代つて教へたと尋ねた。それから敬之進のことを尋ねて見た。
『父さん?』と省吾は寂《さみ》しさうに笑つて、『あの、父さんは家に居りやすよ。』
 よく/\言ひ様に窮《こま》つたと見えて、斯う答へたが、子供心にも父を憐むといふ情合《じやうあひ》は其顔色に表れるのであつた。見れば省吾は足袋も穿《は》いて居なかつた。斯うして酒の罎を提げて悄然《しよんぼり》として居る少年の様子を眺めると、あの無職業な敬之進が奈何して日を送つて居るかも大凡《おほよそ》想像がつく。
『家へ帰つたらねえ、父さんに宜敷《よろしく》言つて下さい。』
 と言はれて、省吾は御辞儀一つして、軈《やが》てぷいと駈出して行つて了つた。丑松も雪の中を急いだ。

       (五)

 宵《よひ》の勤行《おつとめ》も終る頃で、子坊主がかん/\鳴らす鉦《かね》の音を聞き乍ら、丑松は蓮華寺の山門を入つた。上の渡しから是処迄《こゝまで》来るうちに、もう悉皆《すつかり》雪だらけ。羽織の裾も、袖も真白。其と見た奥様は飛んで出て、吾子が旅からでも帰つて来たかのやうに喜んだ。人々も出て迎へた。下女の袈裟治《けさぢ》は塵払《はたき》を取出して、背中に附いた雪を払つて呉れる。庄馬鹿は洗足《すゝぎ》の湯を汲んで持つて来る。疲れて、がつかりして、蔵裏《くり》の上《あが》り框《がまち》に腰掛け乍ら、雪の草鞋《わらぢ》を解《ほど》いた後、温暖《あたゝか》い洗《すゝ》ぎ湯《ゆ》の中へ足を浸した時の其丑松の心地は奈何《どんな》であつたらう。唯《たゞ》――お志保の姿が見えないのは奈何したか。人々の情を嬉敷《うれしく》思ふにつけても、丑松は心に斯《か》う考へて、何となく其人の居ないのが物足りなかつた。
 其時、白衣《びやくえ》に袈裟《けさ》を着けた一人の僧が奥の方から出て来た。奥様の紹介《ひきあはせ》で、丑松は始めて蓮華寺の住職を知つた。聞けば、西京から、丑松の留守中に帰つたといふ。丁度町の檀家《だんか》に仏事が有つて、これから出掛けるところとやら。住職は一寸丑松に挨拶して、寺内の僧を供に連れて出て行つた。
 夕飯《ゆふはん》は蔵裏の下座敷であつた。人々は丑松を取囲《とりま》いて、旅の疲労《つかれ》を言慰めたり、帰省の様子を尋ねたりした。煤けた古壁によせて、昔からあるといふ衣桁《えかう》には若い人の着るものなぞが無造作に懸けてある。其晩は学校友達の婚礼とかで、お志保も招ばれて行つたとのこと。成程《なるほど》左様《さう》言はれて見ると、其人の平常衣《ふだんぎ》らしい。亀甲綛《きつかふがすり》の書生羽織に、縞《しま》の唐桟《たうざん》を重ね、袖だゝみにして折り懸け、長襦袢《ながじゆばん》の色の紅梅を見るやうなは八口《やつくち》のところに美しくあらはれて、朝に晩に肌身に着けるものかと考へると、その壁の模様のやうに動かずにある着物が一層《ひとしほ》お志保を可懐《なつか》しく思出させる。のみならず、五分心の洋燈《ランプ》のひかりは香の煙に交る室内の空気を照らして、物の色艶なぞを奥床しく見せるのであつた。
 さま/″\の物語が始まつた。驚き悲しむ人々を前に置いて、丑松は実地自分が歴《へ》て来た旅の出来事を語り聞かせた。種牛の為に傷けられた父の最後、番小屋で明した山の上の一夜、牧場の葬式、谷蔭の墓、其他草を食ひ塩を嘗《な》め谷川の水を飲んで烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の麓に彷徨《さまよ》ふ牛の群のことを話した。丑松は又、上田の屠牛場《とぎうば》のことを話した。其小屋の板敷の上には種牛の血汐が流れた光景《ありさま》を話した。唯、蓮太郎夫婦に出逢つたこと、別れたこと、それから飯山へ帰る途中川舟に乗合した高柳夫婦――就中《わけても》、あの可憐《あはれ》な美しい穢多の女の身の上に就いては、決して一語《ひとこと》も口外しなかつた。
 斯うして帰省中のいろ/\を語り聞かせて居るうちに、次第に丑松は一種不思議な感想《かんじ》を起すやうに成つた。それは、丑松の積りでは、対手が自分の話を克《よ》く聞いて居て呉れるのだらうと思つて、熱心になつて話して居ると、どうかすると奥様の方では妙な返事をして、飛んでも無いところで『え?』なんて聞き直して、何か斯う話を聞き乍ら別の事でも考へて居るかのやうに――まあ、半分は夢中で応対《うけこたへ》をして居るのだと感づいた。終《しまひ》には、対手が何にも自分の話を聞いて居ないのだといふことを発見《みいだ》した。しばらく丑松は茫然《ぼんやり》として、穴の開くほど奥様の顔を熟視《みまも》つたのである。
 克く見れば、奥様は両方の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》を泣腫《なきは》らして居る。唯さへ気の短い人が余計に感じ易く激し易く成つて居る。言ふに言はれぬ心配なことでも起つたかして、時々深い憂愁《うれひ》の色が其顔に表はれたり隠れたりした。一体、是《これ》は奈何《どう》したのであらう。聞いて見れば留守中、別に是ぞと変つた事も無かつた様子。銀之助は親切に尋ねて呉れたといふし、文平は克《よ》く遊びに来て話して行くといふ。それから斯の寺の方から言へば、住職が帰つたといふことより外に、何も新しい出来事は無かつたらしい。それにしても斯の内部《なか》の様子の何処となく平素《ふだん》と違ふやうに思はれることは。
 軈《やが》て袈裟治は二階へ上つて行つて、部屋の洋燈《ランプ》を点《つ》けて来て呉れた。お志保はまだ帰らなかつた。
『奈何《どう》したんだらう、まあ彼の奥様の様子は。』
 斯う胸の中で繰返し乍ら、丑松は暗い楼梯《はしごだん》を上つた。
 其晩は遅く寝た。過度の疲労に刺激されて、反《かへ》つて能《よ》く寝就かれなかつた。例の癖で、頭を枕につけると、またお志保のことを思出した。尤も何程《いくら》心に描いて見ても、明瞭《あきらか》に其人が浮んだためしは無い。どうかすると、お妻と混同《ごつちや》になつて出て来ることも有る。幾度か丑松は無駄骨折をして、お志保の俤を捜さうとした。瞳を、頬を、髪のかたちを――あゝ、何処を奈何《どう》捜して見ても、何となく其処に其人が居るとは思はれ乍ら、それで奈何しても統一《まとまり》が着かない。時としては彼《あ》のつつましさうに物言ふ声を、時としては彼の口唇《くちびる》にあらはれる若々しい微笑《ほゝゑみ》を――あゝ、あゝ、記憶ほど漠然《ぼんやり》したものは無い。今、思ひ出す。今、消えて了ふ。丑松は顕然《はつきり》と其人を思ひ浮べることが出来なかつた。


   第拾参章

       (一)

『御頼申《おたのまう》します。』
 蓮華寺の蔵裏《くり》へ来て、斯う言ひ入れた一人の紳士がある。それは丑松が帰つた翌朝《あくるあさ》のこと。階下《した》では最早《もう》疾《とつく》に朝飯《あさはん》を済まして了つたのに、未だ丑松は二階から顔を洗ひに下りて来なかつた。『御頼申します。』と復《ま》た呼ぶので、下女の袈裟治は其を聞きつけて、周章《あわ》てゝ台処の方から飛んで出て来た。
『一寸伺ひますが、』と紳士は至極丁寧な調子で、『瀬川さんの御宿は是方様《こちらさま》でせうか――小学校へ御出《おで》なさる瀬川さんの御宿は。』
『左様《さう》でやすよ。』と下女は襷《たすき》を脱《はづ》し乍ら挨拶した。
『何ですか、御在宿《おいで》で御座《ござい》ますか。』
『はあ、居なさりやす。』
『では、是非御目に懸りたいことが有まして、斯ういふものが伺ひましたと、何卒《どうか》左様《さう》仰《おつしや》つて下さい。』
 と言つて、紳士は下女に名刺を渡す。下女は其を受取つて、『一寸、御待ちなすつて』を言捨て乍ら、二階の部屋へと急いだ。
 丑松は未《ま》だ寝床を離れなかつた。下女が枕頭《まくらもと》へ来て喚起《よびおこ》した時は、客の有るといふことを半分夢中で聞いて、苦しさうに呻吟《うな》つたり、手を延ばしたりした。軈《やが》て寝惚眼《ねぼけまなこ》を擦り/\名刺を眺めると、急に驚いたやうに、むつくり跳《は》ね起きた。
『奈何《どう》したの、斯人《このひと》が。』
『貴方《あんた》を尋ねて来なさりやしたよ。』
 暫時《しばらく》の間、丑松は夢のやうに、手に持つた名刺と下女の顔とを見比べて居た。
『斯人は僕のところへ来たんぢや無いんだらう。』
 と不審を打つて、幾度か小首を傾《かし》げる。
『高柳利三郎?』
 と復《ま》た繰返した。袈裟治は襷を手に持つて、一寸小肥りな身体《からだ》を動《ゆす》つて、早く返事を、と言つたやうな顔付。
『何か間違ひぢやないか。』到頭丑松は斯う言出した。『どうも、斯様《こん》な人が僕のところへ尋ねて来る筈《はず》が無い。』
『だつて、瀬川さんと言つて尋ねて来なすつたもの――小学校へ御出なさる瀬川さんと言つて。』
『妙なことが有ればあるもんだなあ。高柳――高柳利三郎――彼の男が僕のところへ――何の用が有つて来たんだらう。兎《と》も角《かく》も逢つて見るか。それぢやあ、御上りなさいツて、左様《さう》言つて下さい。』
『それはさうと、御飯は奈何《どう》しやせう。』
『御飯?』
『あれ、貴方《あんた》は起きなすつたばかりぢやごはせんか。階下《した》で食べなすつたら? 御味噌汁《おみおつけ》も温めてありやすにサ。』
『廃《よ》さう。今朝は食べたく無い。それよりは客を下の座敷へ通して、一寸待たして置いて下さい――今、直に斯部屋を片付けるから。』
 袈裟治は下りて行つた。急に丑松は部屋の内を眺め廻した。着物を着更へるやら、寝道具を片付けるやら。そこいらに散乱《ちらか》つたものは皆な押入の内へ。床の間に置並べた書籍《ほん》の中には、蓮太郎のものも有る。手捷《てばしこ》く其を机の下へ押込んで見たが、また取出して、押入の内の暗い隅の方へ隠蔽《かく》すやうにした。今は斯《こ》の部屋の内にあの先輩の書いたものは一冊も出て居ない。斯う考へて、すこし安心して、さて顔を洗ふつもりで、急いで楼梯《はしごだん》を下りた。それにしても何の用事があつて、彼様《あん》な男が尋ねて来たらう。途中で一緒に成つてすら言葉も掛けず、見れば成る可く是方《こちら》を避《よ》けようとした人。其人がわざ/\やつて来るとは――丑松は客を自分の部屋へ通さない前から、疑心《うたがひ》と恐怖《おそれ》とで慄《ふる》へたのである。

       (二)

『始めまして――私は高柳利三郎です。かねて御名前は承つて居りましたが、つい未《ま》だ御尋《おたづ》ねするやうな機会も無かつたものですから。』
『好く御入来《おいで》下さいました。さあ、何卒《どうか》まあ是方《こちら》へ。』
 斯《か》ういふ挨拶を蔵裏の下座敷で取交して、やがて丑松は二階の部屋の方へ客を導いて行つた。
 突然な斯の来客の底意の程も図りかね、相対《さしむかひ》に座《すわ》る前から、もう何となく気不味《きまづ》かつた。丑松はすこしも油断することが出来なかつた。とは言ふものゝ、何気ない様子を装《つくろ》つて、自分は座蒲団を敷いて座り、客には白い毛布を四つ畳みにして薦《すゝ》めた。
『まあ
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