分で自分を励まして見たが、とう/\言はずに別れて了《しま》つた。どんなに丑松は胸の中に戦ふ深い恐怖《おそれ》と苦痛《くるしみ》とを感じたらう。どんなに丑松は寂しい思を抱《いだ》き乍《なが》ら、もと来た道を根津村の方へと帰つて行つたらう。
初七日も無事に過ぎた。墓参りもし、法事も済み、わざとの振舞は叔母が手料理の精進《しやうじん》で埒明《らちあ》けて、さて漸《やうや》く疲労《つかれ》が出た頃は、叔父も叔母も安心の胸を撫下した。独り精神《こゝろ》の苦闘《たゝかひ》を続けたのは丑松で、蓮太郎が残して行つた新しい刺激は書いたものを読むにも勝《まさ》る懊悩《あうなう》を与へたのである。時として丑松は、自分の一生のことを考へる積りで、小県《ちひさがた》の傾斜を彷徨《さまよ》つて見た。根津の丘、姫子沢の谷、鳥が啼《な》く田圃側《たんぼわき》なぞに霜枯れた雑草を蹈《ふ》み乍ら、十一月上旬の野辺に満ちた光を眺めて佇立《たゝず》んだ時は、今更のやうに胸を流れる活きた血潮の若々しさを感ずる。確実《たしか》に、自分には力がある。斯《か》う丑松は考へるのであつた。しかし其力は内部《なか》へ/\と閉塞《とぢふさが》つて了つて、衝《つ》いて出て行く道が解らない。丑松はたゞ同じことを同じやうに繰返し乍ら、山の上を歩き廻つた。あゝ、自然は慰めて呉れ、励ましては呉れる。しかし右へ行けとも、左へ行けとも、そこまでは人に教へなかつた。丑松が尋ねるやうな問には、野も、丘も、谷も答へなかつたのである。
ある日の午後、丑松は二通の手紙を受取つた。二通ともに飯山から。一通は友人の銀之助。例の筆まめ、相変らず長々しく、丁度|談話《はなし》をするやうな調子で、さま/″\慰藉《なぐさめ》を書き籠め、さて飯山の消息には、校長の噂《うはさ》やら、文平の悪口やら、『僕も不幸にして郡視学を叔父に持たなかつた』とかなんとか言ひたい放題なことを書き散らし、普通教育者の身を恨《うら》み罵《のゝし》り、到底今日の教育界は心ある青年の踏み留まるべきところでは無いと奮慨してよこした。長野の師範校に居る博物科の講師の周旋で、いよ/\農科大学の助手として行くことに確定したから、いづれ遠からず植物研究に身を委《ゆだ》ねることが出来るであらう――まあ、喜んで呉れ、といふ意味を書いてよこした。
功名を慕ふ情熱は、斯の友人の手紙を見ると同時に、烈しく丑松の心を刺激した。一体、丑松が師範校へ入学したのは、多くの他の学友と同じやうに、衣食の途《みち》を得る為で――それは小学教師を志願するやうなものは、誰しも似た境遇に居るのであるから――とはいふものゝ、丑松も無論今の位置に満足しては居なかつた。しかし、銀之助のやうな場合は特別として、高等師範へでも行くより外に、小学教師の進んで出る途は無い。さも無ければ、長い/\十年の奉公。其義務年限の間、束縛されて働いて居なければならない。だから丑松も高等師範へ――といふことは卒業の当時考へないでも無い。志願さへすれば最早とつくに選抜されて居たらう。そこがそれ穢多の悲しさには、妙にそちらの方には気が進まなかつたのである。丑松に言はせると、たとへ高等師範を卒業して、中学か師範校かの教員に成つたとしたところで、もしも蓮太郎のやうな目に逢つたら奈何《どう》する。何処《どこ》まで行つても安心が出来ない。それよりは飯山あたりの田舎《ゐなか》に隠れて、じつと辛抱して、義務年限の終りを待たう。其間に勉強して他の方面へ出る下地を作らう。素性が素性なら、友達なんぞに置いて行かれる積りは毛頭無いのだ。斯う嘆息して、丑松は深く銀之助の身の上を羨んだ。
他の一通は高等四年生総代としてある。それは省吾の書いたもので、手紙の文句も覚束なく、作文の時間に教へた通りをそつくり其儘の見舞状、『根津にて、瀬川先生――風間省吾より』としてあつた。『猶々《なほ/\》』とちひさく隅の方に、『蓮華寺の姉よりも宜敷《よろしく》』としてあつた。
『姉よりも宜敷。』
と繰返して、丑松は言ふに言はれぬ可懐《なつか》しさを感じた。やがてお志保のことを考へる為に、裏の方へ出掛けた。
(四)
追憶《おもひで》の林檎畠――昔若木であつたのも今は太い幹となつて、中には僅かに性命《いのち》を保つて居るやうな虫ばみ朽ちたのもある。見れば木立も枯れ/″\、細く長く垂れ下る枝と枝とは左右に込合つて、思ひ/\に延びて、いかにも初冬の風趣《おもむき》を顕《あらは》して居た。その裸々《らゝ》とした幹の根元から、芽も籠る枝のわかれ、まだところ/″\に青み残つた力なげの霜葉まで、日につれて地に映る果樹の姿は丑松の足許《あしもと》にあつた。そここゝの樹の下に雄雌《をすめす》の鶏、土を浴びて静息《じつ》として蹲踞《はひつくば》つて居るのは、大方羽虫を振ふ為であらう。丁度この林檎畠を隔てゝ、向ふに草葺《くさぶき》の屋根も見える――あゝ、お妻の生家《さと》だ。克《よ》く遊びに行つた家《うち》だ。薄煙青々と其土壁を泄《も》れて立登るのは、何となく人懐しい思をさせるのであつた。
『姉よりも宜敷《よろしく》。』
とまた繰返して、丑松は樹と樹の間をあちこちと歩いて見た。
楽しい思想《かんがへ》は来て、いつの間にか、丑松の胸の中に宿つたのである。昔、昔、少年の丑松があの幼馴染《をさななじみ》のお妻と一緒に遊んだのは爰《こゝ》だ。互に人目を羞《は》ぢらつて、輝く若葉の蔭に隠れたのは爰だ。互に初恋の私語《さゝやき》を取交したのは爰だ。互に無邪気な情の為に燃え乍ら、唯もう夢中で彷徨《さまよ》つたのは爰だ。
斯《か》ういふ風に、過去つたことを思ひ浮べて居ると、お妻からお志保、お志保からお妻と、二人の俤《おもかげ》は往《い》つたり来たりする。別にあの二人は似て居るでも無い。年齢《とし》も違ふ、性質も違ふ、容貌《かほかたち》も違ふ。お妻を姉とも言へないし、お志保を妹とも思はれない。しかし一方のことを思出すと、きつと又た一方のことをも考へて居るのは不思議で――
あゝ、穢多の悲嘆《なげき》といふことさへ無くば、是程《これほど》深く人懐しい思も起らなかつたであらう。是程深く若い生命《いのち》を惜むといふ気にも成らなかつたであらう。是程深く人の世の歓楽《たのしみ》を慕ひあこがれて、多くの青年が感ずることを二倍にも三倍にもして感ずるやうな、其様《そん》な切なさは知らなかつたであらう。あやしい運命に妨《さまた》げられゝば妨げられる程、余計に丑松の胸は溢《あふ》れるやうに感ぜられた。左様《さう》だ――あのお妻は自分の素性を知らなかつたからこそ、昔一緒にこの林檎畠を彷徨《さまよ》つて、蜜のやうな言葉を取交しもしたのである。誰が卑賤《いや》しい穢多の子と知つて、其|朱唇《くちびる》で笑つて見せるものが有らう。もしも自分のことが世に知れたら――斯ういふことは考へて見たばかりでも、実に悲しい、腹立たしい。懐しさは苦しさに交つて、丑松の心を掻乱すやうにした。
思ひ耽《ふけ》つて樹の下を歩いて居ると、急に鶏の声が起つて、森閑《しんかん》とした畠の空気に響き渡つた。
『姉よりも宜敷《よろしく》。』
ともう一度繰返して、それから丑松は斯《こ》の場処を出て行つた。
其晩はお志保のことを考へ乍ら寝た。一度有つたことは二度有るもの。翌《あく》る晩も其又次の晩も、寝る前には必ず枕の上でお志保を思出すやうになつた。尤も朝になれば、そんなことは忘れ勝ちで、『奈何《どう》して働かう、奈何して生活しよう――自分は是から将来《さき》奈何したら好からう』が日々《にち/\》心を悩ますのである。父の忌服《きぶく》は半ば斯ういふ煩悶のうちに過したので、さていよ/\『奈何する』となつた時は、別に是ぞと言つて新しい途《みち》の開けるでも無かつた。四五日の間、丑松はうんと考へた積りであつた。しかし、後になつて見ると、唯もう茫然《ぼんやり》するやうなことばかり。つまり飯山へ帰つて、今迄通りの生活を続けるより外《ほか》に方法も無かつたのである。あゝ、年は若し、経験は少し、身は貧しく、義務年限には縛られて居る――丑松は暗い前途を思ひやつて、やたらに激昂したり戦慄《ふる》へたりした。
第拾弐章
(一)
二七日《ふたなぬか》が済《す》む、直に丑松は姫子沢を発《た》つことにした。やれ、それ、と叔父夫婦は気を揉《も》んで、暦を繰つて日を見るやら、草鞋《わらぢ》の用意をして呉れるやら、握飯《むすび》は三つも有れば沢山だといふものを五つも造《こしら》へて、竹の皮に包んで、別に瓜の味噌漬《みそづけ》を添へて呉れた。お妻の父親《おやぢ》もわざわざやつて来て、炉辺《ろばた》での昔語。煤《すゝ》けた古壁に懸かる例の『山猫』を見るにつけても、亡《な》くなつた老牧夫の噂《うはさ》は尽きなかつた。叔母が汲んで出す別離《わかれ》の茶――其色も濃く香も好いのを飲下した時は、どんなにか丑松も暖い血縁《みうち》のなさけを感じたらう。道祖神の立つ故郷《ふるさと》の出口迄叔父に見送られて出た。
其日は灰色の雲が低く集つて、荒寥《くわうれう》とした小県《ちひさがた》の谷間《たにあひ》を一層|暗欝《あんうつ》にして見せた。烏帽子《ゑぼし》一帯の山脈も隠れて見えなかつた。父の墓のある西乃入の沢あたりは、あるひは最早《もう》雪が来て居たらう。昨日一日の凩《こがらし》で、急に枯々な木立も目につき、梢《こずゑ》も坊主になり、何となく野山の景色が寂しく冬らしくなつた。長い、長い、考へても淹悶《うんざり》するやうな信州の冬が、到頭《たうとう》やつて来た。人々は最早あの※[#「木+危」、第4水準2−14−64]染《くちなしぞめ》の真綿帽子を冠り出した。荷をつけて通る馬の鼻息の白いのを見ても、いかに斯《この》山上の気候の変化が激烈であるかを感ぜさせる。丑松は冷い空気を呼吸し乍ら、岩石の多い坂路を下りて行つた。荒谷《あらや》の村はづれ迄行けば、指の頭《さき》も赤く腫《は》れ脹《ふく》らんで、寒さの為に感覚を失つた位。
田中から直江津行の汽車に乗つて、豊野へ着いたのは丁度|正午《ひる》すこし過。叔母が呉れた握飯《むすび》は停車場《ステーション》前の休茶屋で出して食つた。空腹《すきばら》とは言ひ乍ら五つ迄は。さて残つたのを捨てる訳にもいかず、犬に呉れるは勿体《もつたい》なし、元の竹の皮に包んで外套《ぐわいたう》の袖袋《かくし》へ突込んだ。斯うして腹をこしらへた上、川船の出るといふ蟹沢を指して、草鞋《わらぢ》の紐《ひも》を〆直《しめなほ》して出掛けた。其間|凡《およ》そ一里|許《ばかり》。尤も往きと帰りとでは、同じ一里が近く思はれるもので、北国街道の平坦《たひら》な長い道を独りてく/\やつて行くうちに、いつの間にか丑松は広濶《ひろ/″\》とした千曲川《ちくまがは》の畔《ほとり》へ出て来た。急いで蟹沢の船場迄行つて、便船《びんせん》は、と尋ねて見ると、今々飯山へ向けて出たばかりといふ。どうも拠《よんどころ》ない。次の便船の出るまで是処《こゝ》で待つより外は無い。それでもまだ歩いて行くよりは増だ、と考へて、丑松は茶屋の上《あが》り端《はな》に休んだ。
霙《みぞれ》が落ちて来た。空はいよ/\暗澹《あんたん》として、一面の灰紫色に掩《おほ》はれて了《しま》つた。斯うして一時間の余も待つて居るといふことが、既にもう丑松の身にとつては、堪へ難い程の苦痛《くるしみ》であつた。それに、道を急いで来た為に、いやに身体《からだ》は蒸《む》されるやう。襯衣《シャツ》の背中に着いたところは、びつしより熱い雫《しづく》になつた。額に手を当てゝ見れば、汗に濡《ぬ》れた髪の心地《こゝろもち》の悪さ。胸のあたりを掻展《かきひろ》げて、少許《すこし》気息《いき》を抜いて、軈《やが》て濃い茶に乾いた咽喉《のど》を霑《うるほ》して居る内に、ポツ/\舟に乗る客が集つて来る。あるものは奥の炬燵《こたつ》にあたるもあり、あるものは炉辺へ行つて濡れた羽織を乾すもあり、中
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