、丑松は先輩と細君とが斯ういふ談話《はなし》を為るのを聞いた。
『大丈夫だよ、左様《さう》お前のやうに心配しないでも。』と蓮太郎は叱るやうに。
『その大丈夫が大丈夫で無いから困る。』と細君は歩き乍ら嘆息した。『だつて、貴方は少許《ちつと》も身体を関はないんですもの。私が随いて居なければ、どんな無理を成さるか知れないんですもの。それに、斯の山の上の陽気――まあ、私は考へて見たばかりでも怖《おそろ》しい。』
『そりやあ海岸に居るやうな訳にはいかないさ。』と蓮太郎は笑つて、『しかし、今年は暖和《あたゝか》い。信州で斯様《こん》なことは珍しい。斯の位の空気を吸ふのは平気なものだ。御覧な、其証拠には、信州へ来てから風邪一つ引かないぢやないか。』
『でせう。大変に快《よ》く御成《おなん》なすつたでせう。ですから猶々《なほ/\》大切にして下さいと言ふんです。折角《せつかく》快く成りかけて、復《ま》た逆返《ぶりかへ》しでもしたら――』
『ふゝ、左様《さう》大事を取つて居た日にや、事業《しごと》も何も出来やしない。』
『事業? 壮健《たつしや》に成ればいくらでも事業は出来ますわ。あゝ、一緒に東京へ帰つて下されば好いんですのに。』
『解らないねえ。未《ま》だ其様《そん》なことを言つてる。奈何してまあ女といふものは左様《さう》解らないだらう。何程《どれほど》私が市村さんの御世話に成つて居るか、お前だつて其位《それくらゐ》のことは考へさうなものぢやないか。其人の前で、私に帰れなんて――すこし省慮《かんがへ》の有るものなら、彼様《あん》なことの言へた義理ぢや無からう。彼様《あゝ》いふことを言出されると、折角|是方《こつち》で思つたことも無に成つて了ふ。それに今度は、すこし自分で研究したいことも有る。今胸に浮んで居る思想《かんがへ》を完成《まと》めて書かうといふには、是非とも自分で斯の山の上を歩いて、田園生活といふものを観察しなくちやならない。それには実にもつて来いといふ機会だ。』と言つて、蓮太郎はすこし気を変へて、『あゝ好い天気だ。全く小春日和《こはるびより》だ。今度の旅行は余程面白からう――まあ、お前も家《うち》へ行つて待つて居て呉れ、信州土産はしつかり持つて帰るから。』
二人は暫時《しばらく》無言で歩いた。丑松は右の手の鞄を左へ持ち変へて、黙つて後から随いて行つた。やがて高い白壁造りの倉庫のあるところへ出て来た。
『あゝ。』と細君は萎《しを》れ乍ら、『何故《なぜ》私が帰つて下さいなんて言出したか、其訳を未だ貴方に話さないんですから。』
『ホウ、何か訳が有るのかい。』と蓮太郎は聞咎める。
『外《ほか》でも無いんですけれど。』と細君は思出したやうに震へて、『どうもねえ、昨夜の夢見が悪くて――斯う恐しく胸騒ぎがして――一晩中私は眠られませんでしたよ。何だか私は貴方のことが心配でならない。だつて、彼様《あん》な夢を見る筈が無いんですもの。だつて、其夢が普通《たゞ》の夢では無いんですもの。』
『つまらないことを言ふなあ。それで一緒に東京へ帰れと言ふのか。はゝゝゝゝ。』と蓮太郎は快活らしく笑つた。
『左様《さう》貴方のやうに言つたものでも有ませんよ。未来《さき》の事を夢に見るといふ話は克《よ》く有ますよ。どうも私は気に成つて仕様が無い。』
『ちよツ、夢なんぞが宛《あて》に成るものぢや無し――』
『しかし――奇異《きたい》なことが有れば有るものだ。まあ、貴方の死んだ夢を見るなんて。』
『へん、御幣舁《ごへいかつ》ぎめ。』
(二)
不思議な問答をするとは思つたが、丑松は其を聞いて、格別気にも懸けなかつた。彼程《あれほど》淡泊《さつぱり》として、快濶《さばけ》た気象の細君で有ながら、左様《そん》なことを気に為《す》るとは。まあ、あの夢といふ奴は児童《こども》の世界のやうなもので、時と場所の差別も無く、実に途方も無いことを眼前《めのまへ》に浮べて見せる。先輩の死――どうして其様《そん》な馬鹿らしいことが細君の夢に入つたものであらう。しかし其を気にするところが女だ。と斯う感じ易い異性の情緒《こゝろ》を考へて、いつそ可笑《をか》しくも思はれた位。『女といふものは、多く彼様《あゝ》したものだ。』と自分で自分に言つて見た時は、思はず彼の迷信深い蓮華寺の奥様を、それからあのお志保を思出すのであつた。
橋を渡つて、停車場《ステーション》近くへ出た。細君はすこし後に成つた。丑松は左の手に持ち変へた鞄をまた/\右の手に移して、蓮太郎と別離《わかれ》の言葉を交し乍ら歩いた。
『そんなら先生は――』と丑松は名残惜しさうに聞いて見る。『いつ頃まで信州に居らつしやる御積りなんですか。』
『僕ですか。』と蓮太郎は微笑《ほゝゑ》んで答へた。『左様《さう》ですなあ――すくなくとも市村君の選挙が済むまで。実はね、家内も彼様《あゝ》言ひますし、一旦は東京へ帰らうかとも思ひましたよ。ナニ、これが普通の選挙の場合なら、黙つて帰りますサ。どうせ僕なぞが居たところで、大した応援も出来ませんからねえ。まあ市村君の身になつて考へて見ると、先生は先生だけの覚悟があつて、候補者として立つのですから、誰を政敵にするのも其味は一つです。はゝゝゝゝ。しかし、市村君が勝つか、あの高柳利三郎が勝つか、といふことは、僕等の側から考へると、一寸普通の場合とは違ふかとも思はれる――』
丑松は黙つて随いて行つた。蓮太郎は何か思出したやうに、後から来る細君の方を振返つて見て、やがて復《ま》た歩き初める。
『だつて、君、考へて見て呉れたまへ。あの高柳の行為《やりかた》を考へて見て呉れたまへ。あゝ、いくら吾儕《われ/\》が無智な卑賤《いや》しいものだからと言つて、蹈付《ふみつ》けられるにも程が有る。どうしても彼様《あん》な男に勝たせたくない。何卒《どうか》して市村君のものに為て遣りたい。高柳の話なぞを聞かなければ格別、聞いて、知つて、黙つて帰るといふことは、新平民として余り意気地《いくぢ》が無さ過ぎるからねえ。』
『では、先生は奈何《どう》なさる御積りなんですか。』
『奈何するとは?』
『黙つて帰ることが出来ないと仰《おつしや》ると――』
『ナニ、君、僅かに打撃を加へる迄《まで》のことさ。はゝゝゝゝ。なにしろ先方《さき》には六左衛門といふ金主が附いたのだから、いづれ買収も為るだらうし、壮士的な運動も遣《や》るだらう。そこへ行くと、是方《こつち》は草鞋《わらぢ》一足、舌一枚――おもしろい、おもしろい、敵はたゞ金の力より外に頼りに為るものが無いのだからおもしろい。はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
『しかし、うまく行つて呉れると好いですがなあ――』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
斯《か》ういふ談話《はなし》をして行くうちに、二人は上田|停車場《ステーション》に着いた。
上野行の上り汽車が是処《こゝ》を通る迄には未だ少許《すこし》間が有つた。多くの旅客は既に斯の待合室に満ち溢《あふ》れて居た。細君も直に一緒になつて、三人して弁護士を待受けた。蓮太郎は巻煙草を取出して、丑松に勧め、自分もまた火を点《つ》けて、其を燻《ふか》し/\何を言出すかと思ふと、『いや、信州といふところは余程面白いところさ。吾儕《われ/\》のやうなものを斯様《こんな》に待遇するところは他の国には無いね。』と言ひさして、丑松の顔を眺《なが》め、細君の顔を眺め、それから旅客《たびびと》の群をも眺め廻し乍ら、『ねえ瀬川君、僕も御承知の通りな人間でせう。他の場合とは違つて選挙ですから、実は僕なぞの出る幕では無いと思つたのです。万一、選挙人の感情を害するやうなことが有つては、反《かへ》つて藪蛇《やぶへび》だ。左様《さう》思ふから、まあ演説は見合せにする考へだつたのです。ところが信州といふところは変つた国柄で、僕のやうなものに是非|談話《はなし》をして呉れなんて――はあ、今夜は小諸で、市村君と一緒に演説会へ出ることに。』と言つて、思出したやうに笑つて、『この上田で僕等が談話をした時には七百人から集りました。その聴衆が実に真面目に好く聞いて呉れましたよ。長野に居た新聞記者の言草では無いが、「信州ほど演説の稽古をするに好い処はない、」――全く其通りです。智識の慾に富んで居るのは、斯の山国の人の特色でせうね。これが他の国であつて見たまへ、まあ僕等のやうなものを相手にして呉れる人はありやしません。それが信州へ来れば「先生」ですからねえ。はゝゝゝゝ。』
細君は苦笑ひをしながら聞いて居た。
軈て、切符を売出した。人々はぞろ/\動き出した。丁度そこへ弁護士、肥大な体躯《からだ》を動《ゆす》り乍ら、満面に笑《ゑみ》を含んで馳け付けて、挨拶する間も無く蓮太郎夫婦と一緒に埒《らち》の内へと急いだ。丑松も、入場切符を握つて、随いて入つた。
四番の上りは二十分も後れたので、それを待つ旅客は『プラットホオム』の上に群《むらが》つた。細君は大時計の下に腰掛けて茫然《ばうぜん》と眺め沈んで居る、弁護士は人々の間をあちこちと歩いて居る、丑松は蓮太郎の傍を離れないで、斯うして別れる最後の時までも自分の真情を通じたいが胸中に満ち/\て居た。どうかすると、丑松は自分の日和下駄の歯で、乾いた土の上に何か画《か》き初める。蓮太郎は柱に倚凭《よりかゝ》り乍ら、何の文字とも象徴《しるし》とも解らないやうなものが土の上に画かれるのを眺め入つて居た。
『大分汽車は後れましたね。』
といふ蓮太郎の言葉に気がついて、丑松は下駄の歯の痕《あと》を掻消して了《しま》つた。すこし離れて斯《こ》の光景《ありさま》を眺めて居た中学生もあつたが、やがて他《わき》を向いて意味も無く笑ふのであつた。
『あ、ちよと、瀬川君、飯山の御住処《おところ》を伺つて置きませう。』斯う蓮太郎は尋ねた。
『飯山は愛宕町《あたごまち》の蓮華寺といふところへ引越しました。』と丑松は答へる。
『蓮華寺?』
『下水内郡飯山町蓮華寺方――それで分ります。』
『むゝ、左様《さう》ですか。それから、是《これ》はまあ是限《これぎ》りの御話ですが――』と蓮太郎は微笑《ほゝゑ》んで、『ひよつとすると、僕も君の方まで出掛けて行くかも知れません。』
『飯山へ?』丑松の目は急に輝いた。
『はあ――尤《もつと》も、佐久小県の地方を廻つて、一旦長野へ引揚げて、それからのことですから、まだ奈何《どう》なるか解りませんがね、若《も》し飯山へ出掛けるやうでしたら是非|御訪《おたづ》ねしませう。』
其時、汽笛の音が起つた。見れば直江津の方角から、長い列車が黒烟《くろけぶり》を揚げて進んで来た。顔も衣服《きもの》も垢染《あかじ》み汚れた駅夫の群は忙しさうに駈けて歩く。やがて駅長もあらはれた。汽車はもう人々の前に停つた。多くの乗客はいづれも窓に倚凭《よりかゝ》つて眺める。細君も、弁護士も、丑松に別離《わかれ》を告げて周章《あわたゞ》しく乗込んだ。
『それぢや、君、失敬します。』
といふ言葉を残して置いて、蓮太郎も同じ室へ入る、直に駅夫が飛んで来てぴしやんと其戸を閉めて行つた。丑松の側に居た駅長が高く右の手を差上げて、相図の笛を吹鳴らしたかと思ふと、汽車はもう線路を滑り初めた。細君は窓から顔を差出して、もう一度丑松に挨拶したが、たゞさへ悪い其色艶が忘れることの出来ないほど蒼《あを》かつた。見る見る乗客の姿は動揺して、甲から乙へと影のやうに通過ぎる。丑松は喪心した人のやうになつて、長いこと同じところに樹《う》ゑたやうに立つた。あゝ、先輩は行つて了つた、と思ひ浮べた頃は、もう汽車の形すら見えなかつたのである。後に残る白い雲のやうな煙の群、その一団一団の集合《あつまり》が低く地の上に這《は》ふかと見て居ると、急に風に乱れて、散り/″\になつて、終《しまひ》に初冬の空へ掻消すやうに失くなつて了つた。
(三)
何故《なぜ》人の真情は斯う思ふやうに言ひ表すことの出来ないものであらう。其日といふ其日こそは、あの先輩に言ひたい/\と思つて、一度となく二度となく自
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