父や丑松と一緒になつて、庭に立つて眺めたり話したりした。
『むゝ、彼《あれ》が御話のあつた種牛ですね。』と蓮太郎は小声で言つた。人々は用意に取掛かると見え、いづれも白の上被《うはつぱり》、冷飯草履は脱いで素足に尻端折。笑ふ声、私語《さゝや》く声は、犬の鳴声に交つて、何となく構内は混雑して来たのである。
いよ/\種牛は引出されることになつた。一同の視線は皆な其方へ集つた。今迄沈まりかへつて居た二頭の佐渡牛は、急に騒ぎ初めて、頻と頭を左右に振動かす。一人の屠手は赤い方の鼻面を確乎《しつか》と制《おさ》へて、声を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげま》して制したり叱つたりした。畜生ながらに本能《むし》が知らせると見え、逃げよう/\と焦り出したのである。黒い佐渡牛は繋がれたまゝ柱を一廻りした。死地に引かれて行く種牛は寧《むし》ろ冷静《おちつ》き澄ましたもので、他の二頭のやうに悪※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《わるあがき》を為《す》るでも無く、悲しい鳴声を泄《も》らすでも無く、僅かに白い鼻息を見せて、悠々《いう/\》と獣医の前へ進んだ。紫色の潤《うる》みを帯びた大きな目は傍で観て居る人々を睥睨《へいげい》するかのやう。彼の西乃入の牧場を荒《あば》れ廻つて、丑松の父を突殺した程の悪牛では有るが、斯《か》うした潔《いさぎよ》い臨終の光景《ありさま》は、又た人々に哀憐《あはれみ》の情を催《おこ》させた。叔父も、丑松もすくなからず胸を打たれたのである。獣医はあちこちと廻つて歩き乍ら、種牛の皮を撮《つま》んで見たり、咽喉《のど》を押へて見たり、または角を叩《たゝ》いて見たりして、最後に尻尾を持上たかと思ふと、検査は最早《もう》其で済んだ。屠手は総懸りで寄つて群《たか》つて、『しツ/\』と声を揚げ乍ら、無理無体に屠殺の小屋の方へ種牛を引入れた。屠手の頭《かしら》は油断を見澄まして、素早く細引を投げ搦《から》む。※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と音して牛の身体が板敷の上へ横に成つたは、足と足とが引締められたからである。持主は茫然《ばうぜん》として立つた。丑松も考深い目付をして眺め沈んで居た。やがて、種牛の眉間《みけん》を目懸けて、一人の屠手が斧《をの》(一方に長さ四五寸の管《くだ》があつて、致命傷を与へるのは是《この》管である)を振翳《ふりかざ》したかと思ふと、もう其が是畜生の最後。幽《かすか》な呻吟《うめき》を残して置いて、直に息を引取つて了つた――一撃で種牛は倒されたのである。
(四)
日の光は斯《こ》の小屋の内へ射入つて、死んで其処に倒れた種牛と、多忙《いそが》しさうに立働く人々の白い上被《うはつぱり》とを照した。屠手の頭は鋭い出刃庖丁を振つて、先づ牛の咽喉《のど》を割《さ》く。尾を牽《ひ》くものは直に尾を捨て、細引を持つものは細引を捨てゝ、いづれも牛の上に登つた。多勢の壮丁《わかもの》が力に任せ、所嫌はず踏付けるので、血潮は割かれた咽喉を通して紅《あか》く板敷の上へ流れた。咽喉から腹、腹から足、と次第に黒い毛皮が剥取《はぎと》られる。膏と血との臭気《にほひ》は斯の屠牛場に満ち溢《あふ》れて来た。
他の二頭の佐渡牛が小屋の内へ引入れられて、撃《う》ち殺されたのは間も無くであつた。斯の可傷《いたま》しい光景《ありさま》を見るにつけても、丑松の胸に浮ぶは亡くなつた父のことで。丑松は考深い目付を為乍《しなが》ら、父の死を想《おも》ひつゞけて居ると、軈て種牛の毛皮も悉皆《すつかり》剥取られ、角も撃ち落され、脂肪に包まれた肉身《なかみ》からは湯気のやうな息の蒸上《むしのぼ》るさまも見えた。屠手の頭は手も庖丁も紅く血潮に交《まみ》れ乍ら、あちこちと小屋の内を廻つて指揮《さしづ》する。そこには竹箒《たけばうき》で牛の膏《あぶら》を掃いて居るものがあり、こゝには砥石を出して出刃を磨いで居るものもあつた。赤い佐渡牛は引割と言つて、腰骨《こしぼね》を左右に切開かれ、其骨と骨との間へ横木を入れられて、逆方《さかさま》に高く釣るし上げられることになつた。
『そら、巻くぜ。』と一人の屠手は天井にある滑車《くるま》を見上げ乍ら言つた。
見る/\小屋の中央《まんなか》には、巨大《おほき》な牡牛の肉身《からだ》が釣るされて懸つた。叔父も、蓮太郎も、弁護士も、互に顔を見合せて居た。一人の屠手は鋸《のこぎり》を取出した、脊髄《あばら》を二つに引割り始めたのである。
回向《ゑかう》するやうな持主の目は種牛から離れなかつた。種牛は最早《もう》足さへも切離された。牧場の草踏散らした双叉《ふたまた》の蹄《つめ》も、今は小屋から土間の方へ投出《はふりだ》された。灰紫色の膜に掩《おほ》はれた臓腑は、丁度斯う大風呂敷の包のやうに、べろ/\した儘《まゝ》で其処に置いてある。三人の屠手は互に庖丁を入れて、骨に添ふて肉を切開くのであつた。
烈しい追憶《おもひで》は、復た/\丑松の胸中を往来し始めた。『忘れるな』――あゝ、その熱い臨終の呼吸は、どんなに深い響となつて、生残る丑松の骨の膸《ずゐ》までも貫徹《しみとほ》るだらう。其を考へる度に、亡くなつた父が丑松の胸中に復活《いきかへ》るのである。急に其時、心の底の方で声がして、丑松を呼び警《いまし》めるやうに聞えた。『丑松、貴様は親を捨てる気か。』と其声は自分を責めるやうに聞えた。
『貴様は親を捨てる気か。』
と丑松は自分で自分に繰返して見た。
成程《なるほど》、自分は変つた。成程、一にも二にも父の言葉に服従して、それを器械的に遵奉《じゆんぽう》するやうな、其様《そん》な児童《こども》では無くなつて来た。成程、自分の胸の底は父ばかり住む世界では無くなつて来た。成程、父の厳しい性格を考へる度に、自分は反つて反対《あべこべ》な方へ逸出《ぬけだ》して行つて、自由自在に泣いたり笑つたりしたいやうな、其様《そん》な思想《かんがへ》を持つやうに成つた。あゝ、世の無情を憤《いきどほ》る先輩の心地《こゝろもち》と、世に随へと教へる父の心地と――その二人の相違は奈何《どんな》であらう。斯う考へて、丑松は自分の行く道路《みち》に迷つたのである。
気がついて我に帰つた時は、蓮太郎が自分の傍に立つて居た。いつの間にか巡査も入つて来て、獣医と一緒に成つて眺めて居た。見れば種牛は股《もゝ》から胴へかけて四つの肉塊《かたまり》に切断《たちき》られるところ。右の前足の股の肉は、既に天井から垂下《たれさが》る細引に釣るされて、海綿を持つた一人の屠手が頻と其血を拭ふのであつた。斯うして巨大《おほき》な種牛の肉体《からだ》は実に無造作に屠《ほふ》られて了《しま》つたのである。屠手の頭が印判を取出して、それぞれの肉の上へ押して居るかと見るうちに、一方では引取りに来た牛肉屋の丁稚《でつち》、編席《アンペラ》敷いた箱を車の上に載せて、威勢よく小屋の内へがら/\と引きこんだ。
『十二貫五百。』
といふ声は小屋の隅の方に起つた。
『十一貫七百。』
とまた。
屠《ほふ》られた種牛の肉は、今、大きな秤《はかり》に懸けられるのである、屠手の一人が目方を読み上げる度に、牛肉屋の亭主は鉛筆を舐《な》めて、其を手帳へ書留めた。
やがて其日の立会も済み、持主にも別れを告げ、人々と一緒に斯の屠牛場から引取らうとした時、もう一度丑松は小屋の方を振返つて見た。屠手のあるものは残物の臓腑を取片付ける、あるものは手桶《てをけ》に足を突込んで牛の血潮を洗ひ落す、種牛の片股は未《ま》だ釣るされた儘で、黄な膏《あぶら》と白い脂肪とが日の光を帯びて居た。其時は最早あの可傷《いたま》しい回想《おもひで》の断片といふ感想《かんじ》も起らなかつた。唯大きな牛肉の塊としか見えなかつた。
第拾壱章
(一)
『先《ま》づ好かつた。』と叔父は屠牛場の門を出た時、丑松の肩を叩《たゝ》いて言つた。『先づまあ、是《これ》で御関所は通り越した。』
『あゝ、叔父さんは声が高い。』と制するやうにして、丑松は何か思出したやうに、先へ行く蓮太郎と弁護士との後姿を眺《なが》めた。
『声が高い?』叔父は笑ひ乍ら、『ふゝ、俺のやうな皺枯声《しやがれごゑ》が誰に聞えるものかよ。それは左様《さう》と、丑松、へえ最早《もう》是で安心だ。是処《こゝ》まで漕付《こぎつ》ければ、最早大丈夫だ。どのくれえ、まあ、俺も心配したらう。あゝ今夜からは三人で安気《あんき》に寝られる。』
牛肉を満載した車は二人の傍を通過ぎた。枯々な桑畠《くはばたけ》の間には、其車の音がから/\と響き渡つて、随《つ》いて行く犬の叫び声も何となく喜ばしさうに聞える。心の好い叔父は唯訳も無く身を祝つて、顔の薄痘痕《うすあばた》も喜悦《よろこび》の為に埋もれるかのやう。奈何《どう》いふ思想《かんがへ》が来て今の世の若いものゝ胸を騒がせて居るか、其様《そん》なことはとんと叔父には解らなかつた。昔者の叔父は、斯《こ》の天気の好いやうに、唯一族が無事でさへあれば好かつた。軈《やが》て、考深い目付を為て居る丑松を促《うなが》して、昼仕度を為るために急いだのである。
昼食《ちうじき》の後、丑松は叔父と別れて、単独《ひとり》で弁護士の出張所を訪ねた。そこには蓮太郎が細君と一緒に、丑松の来るのを待受けて居たので。尤《もつと》も、一同で楽しい談話《はなし》をするのは三時間しか無かつた。聞いて見ると細君は東京の家へ、蓮太郎と弁護士とは小諸の旅舎《やどや》まで、其日四時三分の汽車で上田を発つといふ。細君は深く夫の身の上を案じるかして、一緒に東京の方へ帰つて呉れと言出したが、蓮太郎は聞入れなかつた。もと/\友人や後進のものを先にして、家のものを後にするのが蓮太郎の主義で、今度信州に踏留まるといふのも、畢竟《つまり》は弁護士の為に尽したいから。其は細君も万々承知。夫の気象として、左様《さう》いふのは無理もない。しかし斯の山の上で、夫の病気が重りでもしたら。斯ういふ心配は深く細君の顔色に表はれる。『奥様《おくさん》、其様《そんな》に御心配無く――猪子君は私が御預りしましたから。』と弁護士が引受顔なので、細君も強ひてとは言へなかつた。
先輩が可懐《なつか》しければ其細君までも可懐しい。斯う思ふ丑松の情は一層深くなつた。始めて汽車の中で出逢《であ》つた時からして、何となく人格の奥床《おくゆか》しい細君とは思つたが、さて打解けて話して見ると、別に御世辞が有るでも無く、左様《さう》かと言つて可厭《いや》に澄まして居るといふ風でも無い――まあ、極《ご》く淡泊《さつぱり》とした、物に拘泥《こうでい》しない気象の女と知れた。風俗《なりふり》なぞには関《かま》はない人で、是《これ》から汽車に乗るといふのに、其程《それほど》身のまはりを取修《とりつくろ》ふでも無い。男の見て居る前で、僅かに髪を撫《な》で付けて、旅の手荷物もそこ/\に取収《とりまと》めた。あの『懴悔録』の中に斯人《このひと》のことが書いてあつたのを、急に丑松は思出して、兎《と》も角《かく》も普通の良い家庭に育つた人が種族の違ふ先輩に嫁《かたづ》く迄《まで》の其二人の歴史を想像して見た。
汽車を待つ二三時間は速《すぐ》に経《た》つた。左右《さうかう》するうちに、停車場《ステーション》さして出掛ける時が来た。流石《さすが》弁護士は忙《せは》しい商売柄、一緒に門を出ようと為《す》るところを客に捕つて、立つて時計を見乍らの訴訟話。蓮太郎は細君を連れて一歩《ひとあし》先へ出掛けた。『あゝ何時復た先生に御目に懸れるやら。』斯う独語《ひとりごと》のやうに言つて、丑松も見送り乍ら随いて行つた。せめてもの心尽し、手荷物の鞄《かばん》は提げさせて貰ふ。其様《そん》なことが丑松の身に取つては、嬉敷《うれしく》も、名残惜敷《なごりをしく》も思はれたので。
初冬の光は町の空に満ちて、三人とも羞明《まぶし》い位であつた。上田の城跡について、人通りのすくない坂道を下りかけた時
前へ
次へ
全49ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング