其騒しさ。弁当草履を振廻し、『ズック』の鞄を肩に掛けたり、風呂敷包を背負《しよ》つたりして、声を揚げ乍《なが》ら帰つて行つた。丑松もまた高等四年の一組を済まして、左右《みぎひだり》に馳せちがふ生徒の中を職員室へと急いだのである。
校長は応接室に居た。斯《この》人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅《こじうと》にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許《すこし》づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々《にち/\》の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件《こと》であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草《たばこ》の烟《けぶり》は丁度白い渦《うづ》のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
斯《この》校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶《くんたう》したいと言ふのが斯人の主義で、日々《にち/\》の挙動も生活も凡《すべ》て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮《さしづ》する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾《かざり》としか思はなかつた。是主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地《こゝろもち》だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌《きんぱい》を授与されたのである。
丁度その一生の記念が今応接室の机の上に置いてあつた。人々の視線は燦然《さんぜん》とした黄金の光輝《ひかり》に集つたのである。一人の町会議員は其金質を、一人は其|重量《めかた》と直径《さしわたし》とを、一人は其見積りの代価を、いづれも心に商量したり感嘆したりして眺めた。十八金、直径《さしわたし》九分、重量《めかた》五匁、代価凡そ三十円――これが人々の終《しまひ》に一致した評価で、別に添へてある表彰文の中には、よく教育の施設をなしたと書いてあつた。県下教育の上に貢献するところ尠《すくな》からずと書いてあつた。『基金令第八条の趣旨に基き、金牌を授与し、之を表彰す』とも書いてあつた。
『実に今回のことは校長先生の御名誉ばかりぢや有ません、吾信州教育界の名誉です。』
と髯《ひげ》の白い町会議員は改つて言つた。金縁眼鏡の議員は其尾に附いて、
『就きましては、有志の者が寄りまして御祝の印ばかりに粗酒を差上げたいと存じますが――いかゞでせう、今晩三浦屋迄|御出《おいで》を願へませうか。郡視学さんも、何卒《どうか》まあ是非御同道を。』
『いや、左様《さう》いふ御心配に預りましては実に恐縮します。』と校長は倚子《いす》を離れて挨拶した。『今回のことは、教育者に取りましても此上もない名誉な次第で、非常に私も嬉敷《うれしく》思つては居るのですが――考へて見ますと、是ぞと言つて功績のあつた私ではなし、実は斯ういふ金牌なぞを頂戴して、反《かへ》つて身の不肖を恥づるやうな次第で。』
『校長先生、左様《さう》仰つて下すつては、使に来た私共が困ります。』
と痩せぎすな議員が右から手を擦《も》み乍ら言つた。
『御辞退下さる程の御馳走は有ませんのですから。』
と白髯《しらひげ》の議員は左から歎願した。
校長の眼は得意と喜悦《よろこび》とで火のやうに輝いた。いかにも心中の感情を包みきれないといふ風で、胸を突出して見たり、肩を動《ゆす》つて見たりして、軈《やが》て郡視学の方へ向いて斯う尋ねた。
『どうですな、貴方《あなた》の御都合は。』
と言はれて、郡視学は鷹揚《おうやう》な微笑《ほゝゑみ》を口元に湛《たゝ》へ乍ら、
『折角《せつかく》皆さんが彼様《あゝ》言つて下さる。御厚意を無にするのは反つて失礼でせう。』
『御尤《ごもつとも》です――いや、それではいづれ後刻御目に懸つて、御礼を申上げるといふことにしませう。何卒《どうか》皆さんへも宜敷《よろしく》仰つて下さい。』
と校長は丁寧に挨拶した。
実際、地方の事情に遠いものは斯校長の現在の位置を十分会得することが出来ないであらう。地方に入つて教育に従事するものゝ第一の要件は――外でもない、斯校長のやうな凡俗な心づかひだ。曾《かつ》て学校の窓で想像した種々《さま/″\》の高尚な事を左様《さう》いつ迄も考へて、俗悪な趣味を嫌《いと》ひ避けるやうでは、一日たりとも地方の学校の校長は勤まらない。有力者の家《うち》なぞに、悦《よろこ》びもあり哀《かなし》みもあれば、人と同じやうに言ひ入れて、振舞の座には神主坊主と同席に座《す》ゑられ、すこしは地酒の飲みやうも覚え、土地の言葉も可笑《をか》しくなく使用《つか》へる頃には、自然と学問を忘れて、無教育な人にも馴染《なじ》むものである。賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ。
帽子を執《と》つて帰つて行く人々の後に随いて、校長はそこ迄見送つて出た。軈《やが》て玄関で挨拶して別れる時、互に斯ういふ言葉を取替《とりかは》した。
『では、郡視学さんも御誘ひ下すつて、学校から直に御出を。』
『恐れ入りましたなあ。』
(二)
『小使。』
と呼ぶ校長の声は長い廊下に響き渡つた。
生徒はもう帰つて了つた。教場の窓は皆な閉つて、運動場《うんどうば》に庭球《テニス》する人の影も見えない。急に周囲《そこいら》は森閑《しんかん》として、時々職員室に起る笑声の外には、寂《さみ》しい静かな風琴の調《しらべ》がとぎれ/\に二階から聞えて来る位のものであつた。
『へい、何ぞ御用で御座《ござい》ますか。』と小使は上草履を鳴らして駈寄る。
『あ、ちよと、気の毒だがねえ、もう一度役場へ行つて催促して来て呉れないか。金銭《おかね》を受取つたら直に持つて来て呉れ――皆さんも御待兼だ。』
斯う命じて置いて、校長は応接室の戸を開けて入つた。見れば郡視学は巻煙草を燻《ふか》し乍ら、独りで新聞を読み耽《ふけ》つて居る。『失礼しました。』と声を掛けて、其側《そのわき》へ自分の椅子を擦寄せた。
『見たまへ、まあ斯《この》信濃毎日を。』と郡視学は馴々敷《なれ/\しく》、『君が金牌を授与されたといふことから、教育者の亀鑑だといふこと迄、委敷《くはしく》書いて有ますよ。表彰文は全部。それに、履歴までも。』
『いや、今度の受賞は大変な評判になつて了ひました。』と校長も喜ばしさうに、『何処へ行つても直に其話が出る。実に意外な人迄知つて居て、祝つて呉れるやうな訳で。』
『結構です。』
『これといふのも貴方《あなた》の御骨折から――』
『まあ其は言はずに置いて貰ひませう。』と郡視学は対手の言葉を遮《さへぎ》つた。『御互様のことですからな。はゝゝゝゝ。しかし吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦《およろこび》も御察し申す。』
『勝野君も非常に喜んで呉れましてね。』
『甥《をひ》がですか、あゝ左様《さう》でしたらう。私の許《ところ》へも長い手紙をよこしましたよ。其を読んだ時は、彼男《あのをとこ》の喜ぶ顔付が目に見えるやうでした。実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』
郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとしたので。尤《もつと》も席順から言へば、丑松は首座。生徒の人望は反つて校長の上にある程。銀之助とても師範出の若手。いかに校長が文平を贔顧《ひいき》だからと言つて、二人の位置を動かす訳にはいかない。文平は第三席に着けられて出たのであつた。
『それに引換へて瀬川君の冷淡なことは。』と校長は一段声を低くした。
『瀬川君?』と郡視学も眉をひそめる。
『まあ聞いて下さい。万更《まんざら》の他人が受賞したではなし、定めし瀬川君だつても私の為に喜んで居て呉れるだらう、と斯う貴方なぞは御考へでせう。ところが大違ひです。こりやあ、まあ、私が直接《ぢか》に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向つて、まさかに其様《そん》なことが言へもしますまいが――といふのは、教育者が金牌なぞを貰つて鬼の首でも取つたやうに思ふのは大間違だと。そりやあ成程《なるほど》人爵の一つでせう。瀬川君なぞに言はせたら価値《ねうち》の無いものでせう。然し金牌は表章《しるし》です。表章が何も難有《ありがた》くは無い。唯其意味に価値《ねうち》がある。はゝゝゝゝ、まあ左様《さう》ぢや有ますまいか。』
『どうしてまた瀬川君は其様《そん》な思想《かんがへ》を持つのだらう。』と郡視学は嘆息した。
『時代から言へば、あるひは吾儕《われ/\》の方が多少|後《おく》れて居るかも知れません。しかし新しいものが必ずしも好いとは限りませんからねえ。』と言つて校長は嘲《あざけ》つたやうに笑つて、『なにしろ、瀬川君や土屋君が彼様《あゝ》して居たんぢや、万事私も遣りにくゝて困る。同志の者ばかり集つて、一致して教育事業をやるんででもなけりやあ、到底面白くはいきませんさ。勝野君が首座ででもあつて呉れると、私も大きに安心なんですけれど。』
『そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有さうなものですがなあ。』と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。
『方法とは?』と校長も熱心に。
『他の学校へ移すとか、後釜《あとがま》へは――それ、君の気に入つた人を入れるとかサ。』
『そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧《うま》くやらないと――あれで瀬川君はなか/\生徒間に人望が有ますから。』
『さうさ、過失の無いものに向つて、出て行けとも言はれん。はゝゝゝゝ、余りまた細工をしたやうに思はれるのも厭だ。』と言つて郡視学は気を変へて、『まあ私の口から甥を褒めるでも有ませんが、貴方の為には必定《きつと》御役に立つだらうと思ひますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいといふ積りだ。一体瀬川君は何処が好いんでせう。どうして彼様《あん》な教師に生徒が大騒ぎをするんだか――私なんかには薩張《さつぱり》解らん。他《ひと》の名誉に思ふことを冷笑するなんて、奈何《どう》いふことがそんならば瀬川君なぞには難有《ありがた》いんです。』
『先づ猪子蓮太郎あたりの思想でせうよ。』
『むゝ――あの穢多か。』と郡視学は顔を渋《しか》める。
『あゝ。』と校長も深く歎息した。『猪子のやうな男の書いたものが若いものに読まれるかと思へば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年の身をあやまる原因《もと》なんです。その為に畸形《かたは》の人間が出来て見たり、狂見《きちがひみ》たやうな男が飛出したりする。あゝ、あゝ、今の青年の思想ばかりは奈何《どう》しても吾儕《われ/\》に解りません。』
(三)
不図応接室の戸を叩《たゝ》く音がした。急に二人は口を噤《つぐ》んだ。復《ま》た叩く。『お入り』と声をかけて、校長は倚子《いす》を離れた。郡視学も振返つて、戸を開けに行く校長の後姿を眺め乍ら、誰、町会議員からの使ででもあるか、斯う考へて、入つて来る人の様子を見ると――思ひの外な一人の教師、つゞいてあらはれたのが丑松であつた。校長は思はず郡視学と顔を見合せたのである。
『校長先生、何か御用談中ぢや有ませんか。』
と丑松は尋ねた。校長は一寸|微笑《ほゝゑ》んで、
『いえ、なに、別に用談でも有ません――今二人で御噂をして居たところです。』
『実はこの風間さんですが、是非郡視学さんに御目に懸つて、直接に御願ひしたいことがあるさうですから。』
斯《か》う言つて、丑松は一緒に来た同僚を薦《すゝ》めるやうにした。
風間|敬之進《けいのしん
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