し乍ら、一|挺《ちやう》の籠が舁がれて出るところであつた。あゝ、大尽が忍んで出るのであらう、と丑松は憐んで、黙然《もくねん》として其処に突立つて見て居るうちに、いよ/\其とは附添の男で知れた。同じ宿に居たとは言ひ乍ら、つひぞ丑松は大日向を見かけたことが無い。唯附添の男ばかりは、よく薬の罎《びん》なぞを提げて、出たり入つたりするところを見かけたのである。その雲を突くやうな大男が、今、尻端折りで、主人を保護したり、人足を指図したりする甲斐々々しさ。穢多の中でも卑賤《いや》しい身分のものと見え、其処に立つて居る丑松を同じ種族《やから》とは夢にも知らないで、妙に人を憚《はゞか》るやうな様子して、一寸|会釈《ゑしやく》し乍ら側を通りぬけた。門口に主婦《かみさん》、『御機嫌よう』の声も聞える。見れば下宿の内は何となく騒々しい。人々は激昂したり、憤慨したりして、いづれも聞えよがしに罵つて居る。
『難有《ありがた》うぞんじます――そんなら御気をつけなすつて。』
 とまた主婦は籠の側へ駈寄つて言つた。籠の内の人は何とも答へなかつた。丑松は黙つて立つた。見る/\舁《かつ》がれて出たのである。
『ざまあ見やがれ。』
 これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であつた。
 丑松がすこし蒼《あを》ざめた顔をして、下宿の軒を潜つて入つた時は、未だ人々が長い廊下に群《むらが》つて居た。いづれも感情を制《おさ》へきれないといふ風で、肩を怒らして歩くもあり、板の間を踏み鳴らすもあり、中には塩を掴んで庭に蒔散《まきち》らす弥次馬もある。主婦は燧石《ひうちいし》を取出して、清浄《きよめ》の火と言つて、かち/\音をさせて騒いだ。
 哀憐《あはれみ》、恐怖《おそれ》、千々の思は烈しく丑松の胸中を往来した。病院から追はれ、下宿から追はれ、其残酷な待遇《とりあつかひ》と恥辱《はづかしめ》とをうけて、黙つて舁がれて行く彼《あ》の大尽の運命を考へると、嘸《さぞ》籠の中の人は悲慨《なげき》の血涙《なんだ》に噎《むせ》んだであらう。大日向の運命は軈《やが》てすべての穢多の運命である。思へば他事《ひとごと》では無い。長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となつたまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じやうな量見で、危いとも恐しいとも思はずに通り越して来たものだ。斯《か》うなると胸に浮ぶは父のことである。父といふのは今、牧夫をして、烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の麓《ふもと》に牛を飼つて、隠者のやうな寂しい生涯《しやうがい》を送つて居る。丑松はその西乃入《にしのいり》牧場を思出した。その牧場の番小屋を思出した。
『阿爺《おとつ》さん、阿爺さん。』
 と口の中で呼んで、自分の部屋をあちこち/\と歩いて見た。不図《ふと》父の言葉を思出した。
 はじめて丑松が親の膝下《しつか》を離れる時、父は一人息子の前途を深く案じるといふ風で、さま/″\な物語をして聞かせたのであつた。其時だ――一族の祖先のことも言ひ聞かせたのは。東海道の沿岸に住む多くの穢多の種族のやうに、朝鮮人、支那人、露西亜《ロシア》人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違ひ、その血統は古《むかし》の武士の落人《おちうど》から伝《つたは》つたもの、貧苦こそすれ、罪悪の為に穢れたやうな家族ではないと言ひ聞かせた。父はまた添付《つけた》して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希望《のぞみ》、唯一つの方法《てだて》、それは身の素性を隠すより外に無い、『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅《めぐりあ》はうと決して其とは自白《うちあ》けるな、一旦の憤怒《いかり》悲哀《かなしみ》に是《この》戒《いましめ》を忘れたら、其時こそ社会《よのなか》から捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのである。
 一生の秘訣とは斯の通り簡単なものであつた。『隠せ。』――戒はこの一語《ひとこと》で尽きた。しかし其頃はまだ無我夢中、『阿爺《おやぢ》が何を言ふか』位に聞流して、唯もう勉強が出来るといふ嬉しさに家を飛出したのであつた。楽しい空想の時代は父の戒も忘れ勝ちに過ぎた。急に丑松は少年《こども》から大人に近《ちかづ》いたのである。急に自分のことが解つて来たのである。まあ、面白い隣の家から面白くない自分の家へ移つたやうに感ずるのである。今は自分から隠さうと思ふやうになつた。

       (四)

 あふのけさまに畳の上へ倒れて、暫時《しばらく》丑松は身動きもせずに考へて居たが、軈《やが》て疲労《つかれ》が出て眠《ね》て了《しま》つた。不図目が覚めて、部屋の内《なか》を見廻した時は、点《つ》けて置かなかつた筈の洋燈《ランプ》が寂しさうに照して、夕飯の膳も片隅に置いてある。自分は未だ洋服の儘《まゝ》。丑松の心地《こゝろもち》には一時間余も眠つたらしい。戸の外には時雨《しぐれ》の降りそゝぐ音もする。起き直つて、買つて来た本の黄色い表紙を眺め乍ら、膳を手前へ引寄せて食つた。飯櫃《おはち》の蓋を取つて、あつめ飯の臭気《にほひ》を嗅《か》いで見ると、丑松は最早《もう》嘆息して了つて、そこ/\にして膳を押遣《おしや》つたのである。『懴悔録』を披《ひろ》げて置いて、先づ残りの巻煙草《まきたばこ》に火を点けた。
 この本の著者――猪子蓮太郎の思想は、今の世の下層社会の『新しい苦痛』を表白《あらは》すと言はれて居る。人によると、彼男《あのをとこ》ほど自分を吹聴《ふいちやう》するものは無いと言つて、妙に毛嫌するやうな手合もある。成程《なるほど》、其筆にはいつも一種の神経質があつた。到底蓮太郎は自分を離れて説話《はなし》をすることの出来ない人であつた。しかし思想が剛健で、しかも観察の精緻《せいち》を兼ねて、人を吸引《ひきつ》ける力の壮《さか》んに溢《あふ》れて居るといふことは、一度其著述を読んだものゝ誰しも感ずる特色なのである。蓮太郎は貧民、労働者、または新平民等の生活状態を研究して、社会の下層を流れる清水に掘りあてる迄は倦《う》まず撓《たわ》まず努力《つと》めるばかりでなく、また其を読者の前に突着けて、右からも左からも説明《ときあか》して、呑込めないと思ふことは何度繰返しても、読者の腹《おなか》の中に置かなければ承知しないといふ遣方《やりかた》であつた。尤《もつと》も蓮太郎のは哲学とか経済とかの方面から左様《さう》いふ問題《ことがら》を取扱はないで、寧《むし》ろ心理の研究に基礎《どだい》を置いた。文章はたゞ岩石を並べたやうに思想を並べたもので、露骨《むきだし》なところに反つて人を動かす力があつたのである。
 しかし丑松が蓮太郎の書いたものを愛読するのは唯|其丈《それだけ》の理由からでは無い。新しい思想家でもあり戦士でもある猪子蓮太郎といふ人物が穢多の中から産れたといふ事実は、丑松の心に深い感動を与へたので――まあ、丑松の積りでは、隠《ひそか》に先輩として慕つて居るのである。同じ人間であり乍ら、自分等ばかり其様《そんな》に軽蔑《けいべつ》される道理が無い、といふ烈しい意気込を持つやうになつたのも、実はこの先輩の感化であつた。斯ういふ訳から、蓮太郎の著述といへば必ず買つて読む。雑誌に名が出る、必ず目を通す。読めば読む程丑松はこの先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな気がした。穢多としての悲しい自覚はいつの間にか其頭を擡《もちあ》げたのである。
 今度の新著述は、『我は穢多なり』といふ文句で始めてあつた。其中には同族の無智と零落とが活きた画のやうに描いてあつた。其中には多くの正直な男女《をとこをんな》が、たゞ穢多の生れといふばかりで、社会から捨てられて行く光景《ありさま》も写してあつた。其中には又、著者の煩悶の歴史、歓《うれ》し哀《かな》しい過去の追想《おもひで》、精神の自由を求めて、しかも其が得られないで、不調和な社会の為に苦《くるし》みぬいた懐疑《うたがひ》の昔語《むかしがたり》から、朝空を望むやうな新しい生涯に入る迄――熱心な男性《をとこ》の嗚咽《すゝりなき》が声を聞くやうに書きあらはしてあつた。
 新しい生涯――それが蓮太郎には偶然な身のつまづきから開けたのである。生れは信州高遠の人。古い穢多の宗族《いへがら》といふことは、丁度長野の師範校に心理学の講師として来て居た頃――丑松がまだ入学しない以前《まへ》――同じ南信の地方から出て来た二三の生徒の口から泄《も》れた。講師の中に賤民の子がある。是噂が全校へ播《ひろが》つた時は、一同|驚愕《おどろき》と疑心《うたがひ》とで動揺した。ある人は蓮太郎の人物を、ある人はその容貌《ようばう》を、ある人はその学識を、いづれも穢多の生れとは思はれないと言つて、どうしても虚言《うそ》だと言張るのであつた。放逐、放逐、声は一部の教師仲間の嫉妬《しつと》から起つた。嗚呼、人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』で殺される猶太人《ユダヤじん》もなからうし、西洋で言囃《いひはや》す黄禍の説もなからう。無理が通れば道理が引込むといふ斯《この》世の中に、誰が穢多の子の放逐を不当だと言ふものがあらう。いよ/\蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に別離《わかれ》を告げて行く時、この講師の為に同情《おもひやり》の涙《なんだ》を流すものは一人もなかつた。蓮太郎は師範校の門を出て、『学問の為の学問』を捨てたのである。
 この当時の光景《ありさま》は『懴悔録』の中に精《くは》しく記載してあつた。丑松は身につまされるかして、幾度《いくたび》か読みかけた本を閉ぢて、目を瞑《つぶ》つて、やがて其を読むのは苦しくなつて来た。同情《おもひやり》は妙なもので、反つて底意を汲ませないやうなことがある。それに蓮太郎の筆は、面白く読ませるといふよりも、考へさせる方だ。終《しまひ》には丑松も書いてあることを離れて了つて、自分の一生ばかり思ひつゞけ乍ら読んだ。
 今日まで丑松が平和な月日を送つて来たのは――主に少年時代からの境遇にある。そも/\は小諸の向町《むかひまち》(穢多町)の生れ。北佐久の高原に散布する新平民の種族の中でも、殊に四十戸ばかりの一族《いちまき》の『お頭《かしら》』と言はれる家柄であつた。獄卒《らうもり》と捕吏《とりて》とは、維新前まで、先祖代々の職務《つとめ》であつて、父はその監督の報酬《むくい》として、租税を免ぜられた上、別に俸米《ふち》をあてがはれた。それ程の男であるから、貧苦と零落との為め小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかつた。丑松が根津村《ねづむら》の学校へ通ふやうになつてからは、もう普通《なみ》の児童《こども》で、誰もこの可憐な新入生を穢多の子と思ふものはなかつたのである。最後に父は姫子沢《ひめこざは》の谷間《たにあひ》に落着いて、叔父夫婦も一緒に移り住んだ。異《かは》つた土地で知るものは無し、強《し》ひて是方《こちら》から言ふ必要もなし、といつたやうな訳で、終《しまひ》には慣れて、少年の丑松は一番早く昔を忘れた。官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、たゞ先祖の昔話としか考へて居なかつた位で。
 斯ういふ過去の記憶は今丑松の胸の中に復活《いきかへ》つた。七つ八つの頃まで、よく他の小供に調戯《からか》はれたり、石を投げられたりした、其|恐怖《おそれ》の情はふたゝび起つて来た。朦朧《おぼろげ》ながらあの小諸の向町に居た頃のことを思出した。移住する前に死んだ母親のことなぞを思出した。『我は穢多なり』――あゝ、どんなに是一句が丑松の若い心を掻乱《かきみだ》したらう。『懴悔録』を読んで、反《かへ》つて丑松はせつない苦痛《くるしみ》を感ずるやうになつた。


   第弐章

       (一)

 毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊《こと》に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女《をとこをんな》の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛《いたづらざか》りの少年の群は、一時に溢れて、
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