来た。
 蓮太郎は鞄《かばん》の中から持薬を取出した。殊に湯上りの顔色は病気のやうにも見えなかつた。嗅ぐともなしに『ケレオソオト』のにほひを嗅いで見て、軈《やが》て高柳のことを言出す。
『して見ると、瀬川君はあの男と一緒に飯山を御出掛でしたね。』
『どうも不思議だとは思ひましたよ。』と丑松は笑つて、『妙に是方《こちら》を避《よ》けるといふやうな風でしたから。』
『そこがそれ、心に疚《やま》しいところの有る証拠さ。』
『今考へても、彼の外套《ぐわいたう》で身体を包んで、隠れて行くやうな有様が、目に見えるやうです。』
『はゝゝゝゝ。だから、君、悪いことは出来ないものさ。』
 と言つて、それから蓮太郎は聞いて来た一伍一什《いちぶしじゆう》を丑松に話した。高柳が秘密に六左衛門の娘を貰つたといふ事実は、妙なところから出たとのこと。すこし調べることがあつて、信州で一番古い秋葉村の穢多町(上田の在にある)、彼処へ蓮太郎が尋ねて行くと、あの六左衛門の親戚で加《しか》も讐敵《かたき》のやうに仲の悪いとかいふ男から斯の話が泄《も》れたとのこと。蓮太郎が弁護士と一緒に、今朝この根津村へ入つた時は、折も折、丁度高柳夫婦が新婚旅行にでも出掛けようとするところ。無論|先方《さき》では知るまいが、確に是方《こちら》では後姿を見届けたとのことであつた。
『実に驚くぢやないか。』と蓮太郎は嘆息した。『瀬川君、君はまあ奈何《どう》思ふね、彼の男の心地《こゝろもち》を。これから君が飯山へ帰つて見たまへ――必定《きつと》あの男は平気な顔して結婚の披露を為るだらうから――何処《どこ》か遠方の豪家からでも細君を迎へたやうに細工《こしら》へるから――そりやあもう新平民の娘だとは言ふもんぢやないから。』
 斯ういふ話を始めたところへ、下女が膳を持運んで来た。皿の上の鮠《はや》は焼きたての香を放つて、空腹《すきばら》で居る二人の鼻を打つ。銀色の背、樺《かば》と白との腹、その鮮《あたら》しい魚が茶色に焼け焦げて、ところまんだら味噌の能《よ》く付かないのも有つた。いづれも肥え膏《あぶら》づいて、竹の串に突きさゝれてある。流石《さすが》に嗅ぎつけて来たと見え、一匹の小猫、下女の背後《うしろ》に様子を窺《うかゞ》ふのも可笑《をか》しかつた。御給仕には及ばないを言はれて、下女は小猫を連れて出て行く。
『さあ、先生、つけませう。』と丑松は飯櫃《めしびつ》を引取つて、気《いき》の出るやつを盛り始めた。
『どうも済《す》みません。各自《めい/\》勝手にやることにしようぢや有ませんか。まあ、斯《か》うして膳に向つて見ると、あの師範校の食堂を思出さずには居られないねえ。』
 と笑つて、蓮太郎は話し/\食つた。丑松も骨離《ほねばなれ》の好い鮠《はや》の肉を取つて、香ばしく焼けた味噌の香を嗅ぎ乍ら話した。
『あゝ。』と蓮太郎は箸持つ手を膝の上に載せて、『どうも当世紳士の豪《えら》いには驚いて了《しま》ふ――金といふものゝ為なら、奈何《どん》なことでも忍ぶのだから。瀬川君、まあ、聞いて呉れたまへ。彼の通り高柳が体裁を飾つて居ても、実は非常に内輪の苦しいといふことは、僕も聞いて居た。借財に借財を重ね、高利貸には責められる、世間への不義理は嵩《かさ》む、到底今年選挙を争ふ見込なぞは立つまいといふことは、聞いて居た。しかし君、いくら窮境に陥つたからと言つて、金を目的《めあて》に結婚する気に成るなんて――あんまり根性が見え透《す》いて浅猿《あさま》しいぢやないか。あるひは、彼男に言はせたら、六左衛門だつて立派な公民だ、其娘を貰ふのに何の不思議が有る、親子の間柄で選挙の時なぞに助けて貰ふのは至当《あたりまへ》ぢやないか――斯う言ふかも知れない。それならそれで可《いゝ》さ。階級を打破して迄《まで》も、気に入つた女を貰ふ位の心意気が有るなら、又面白い。何故そんなら、狐鼠々々《こそ/\》と祝言《しうげん》なぞを為るんだらう。何故そんなら、隠れてやつて来て、また隠れて行くやうな、男らしくない真似を為るんだらう。苟《いやし》くも君、堂々たる代議士の候補者だ。天下の政治を料理するなどと長広舌を振ひ乍ら、其人の生涯を見れば奈何《どう》だらう。誰やらの言草では無いが、全然《まるで》紳士の面を冠つた小人の遣方だ――情ないぢやないか。成程《なるほど》世間には、金に成ることなら何でもやる、買手が有るなら自分の一生でも売る、斯《か》ういふ量見の人はいくらも有るさ。しかし、彼男のは、売つて置いて知らん顔をして居よう、といふのだから酷《はなはだ》しい。まあ、君、僕等の側に立つて考へて見て呉れたまへ――是程《これほど》新平民といふものを侮辱した話は無からう。』
 暫時《しばらく》二人は言葉を交さないで食つた。軈てまた蓮太郎は感慨に堪へないと言ふ風で、病気のことなぞはもう忘れて居るかのやうに、
『彼男《あのをとこ》も彼男なら、六左衛門も六左衛門だ。そんなところへ娘を呉れたところで何が面白からう。是《これ》から東京へでも出掛けた時に、自分の聟は政事家だと言つて、吹聴する積りなんだらうが、あまり寝覚の好い話でも無からう。虚栄心にも程が有るさ。ちつたあ娘のことも考へさうなものだがなあ。』
 斯う言つて蓮太郎は考深い目付をして、孤《ひと》り思に沈むといふ様子であつた。
 聞いて見れば聞いて見るほど、彼の政事家の内幕にも驚かれるが、又、この先輩の同族を思ふ熱情にも驚かれる。丑松は、弱い体躯《からだ》の内に燃える先輩の精神の烈しさを考へて、一種の悲壮な感想《かんじ》を起さずには居られなかつた。実際、蓮太郎の談話《はなし》の中には丑松の心を動かす力が籠つて居たのである。尤《もつと》も、病のある人ででも無ければ、彼様《あゝ》は心を傷めまい、と思はれるやうな節々が時々其言葉に交つて聞えたので。

       (四)

 到頭丑松は言はうと思ふことを言はなかつた。吉田屋を出たのは宵《よひ》過ぎる頃であつたが、途々それを考へると、泣きたいと思ふ程に悲しかつた。何故、言はなかつたらう。丑松は歩き乍ら、自分で自分に尋ねて見る。亡父《おやぢ》の言葉も有るから――叔父も彼様《あゝ》忠告したから――一旦秘密が自分の口から泄《も》れた以上は、それが何時《いつ》誰の耳へ伝はらないとも限らない、先輩が細君へ話す、細君はまた女のことだから到底秘密を守つては呉れまい、斯《か》ういふことに成ると、それこそ最早《もう》回復《とりかへし》が付かない――第一、今の場合、自分は穢多であると考へたく無い、是迄も普通の人間で通つて来た、是《これ》から将来《さき》とても無論普通の人間で通りたい、それが至当な道理であるから――
 種々《いろ/\》弁解《いひわけ》を考へて見た。
 しかし、斯ういふ弁解は、いづれも後から造《こしら》へて押付けたことで、それだから言へなかつたとは奈何しても思はれない。残念乍ら、丑松は自分で自分を欺いて居るやうに感じて来た。蓮太郎にまで隠して居るといふことは、実は丑松の良心が許さなかつたのである。
 あゝ、何を思ひ、何を煩ふ。決して他の人に告白《うちあ》けるのでは無い。唯あの先輩だけに告白けるのだ。日頃自分が慕つて居る、加《しか》も自分と同じ新平民の、其人だけに告白けるのに、危い、恐しいやうなことが何処にあらう。
『どうしても言はないのは虚偽《うそ》だ。』
 と丑松は心に羞《は》ぢたり悲んだりした。
 そればかりでは無い。勇み立つ青春の意気も亦《ま》た丑松の心に強い刺激を与へた。譬《たと》へば、丑松は雪霜の下に萌《も》える若草である。春待つ心は有ながらも、猜疑《うたがひ》と恐怖《おそれ》とに閉ぢられて了《しま》つて、内部《なか》の生命《いのち》は発達《のび》ることが出来なかつた。あゝ、雪霜が日にあたつて、溶けるといふに、何の不思議があらう。青年が敬慕の情を心ゆく先輩の前に捧げて、活きて進むといふに、何の不思議があらう。見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は蓮太郎の感化を享《う》けて、精神の自由を慕はずには居られなかつたのである。言ふべし、言ふべし、それが自分の進む道路《みち》では有るまいか。斯う若々しい生命が丑松を励ますのであつた。
『よし、明日は先生に逢つて、何もかも打開《ぶちま》けて了はう。』
 と決心して、姫子沢の家をさして急いだ。
 其晩はお妻の父親《おやぢ》がやつて来て、遅くまで炉辺《ろばた》で話した。叔父は蓮太郎のことに就いて別に深く掘つて聞かうとも為なかつた。唯丑松が寝床の方へ行かうとした時、斯ういふ問を掛けた。
『丑松――お前《めへ》は今日の御客様《おきやくさん》に、何にも自分のことを話しやしねえだらうなあ。』
 と言はれて、丑松は叔父の顔を眺めて、
『誰が其様《そん》なことを言ふもんですか。』
 と答へるには答へたが、それは本心から出た言葉では無いのであつた。
 寝床に入つてからも、丑松は長いこと眠られなかつた。不思議な夢は来て、眼前《めのまへ》を通る。其人は見納めの時の父の死顔であるかと思ふと、蓮太郎のやうでもあり、病の為に蒼《あを》ざめた蓮太郎の顔であるかと思ふと、お妻のやうでもあつた。あの艶を帯《も》つた清《すゞ》しい眸《ひとみ》、物言ふ毎にあらはれる皓歯《しらは》、直に紅《あか》くなる頬――その真情の外部《そと》に輝き溢《あふ》れて居る女らしさを考へると、何時の間にか丑松はお志保の俤《おもかげ》を描いて居たのである。尤《もつと》もこの幻影《まぼろし》は長く後まで残らなかつた。払暁《あけがた》になると最早《もう》忘れて了つて、何の夢を見たかも覚えて居ない位であつた。


   第拾章

       (一)

 いよ/\苦痛《くるしみ》の重荷を下す時が来た。
 丁度蓮太郎は弁護士と一緒に、上田を指して帰るといふので、丑松も同行の約束した。それは父を傷《きずつ》けた種牛が上田の屠牛場《とぎうば》へ送られる朝のこと。叔父も、丑松も其立会として出掛ける筈になつて居たので。昨夜の丑松の決心――あれを実行するには是上《このうへ》も無い好い機会《しほ》。復《ま》た逢《あ》はれるのは何時のことやら覚束《おぼつか》ない。どうかして叔父や弁護士の聞いて居ないところで――唯先輩と二人ぎりに成つた時に――斯う考へて、丑松は叔父と一緒に出掛ける仕度をしたのであつた。
 上田街道へ出ようとする角のところで、そこに待合せて居る二人と一緒になつた。丑松は叔父を弁護士に紹介し、それから蓮太郎にも紹介した。
『先生、これが私の叔父です。』
 と言はれて、叔父は百姓らしい大な手を擦《も》み乍《なが》ら、
『丑松の奴がいろ/\御世話様に成りますさうで――昨日《さくじつ》はまた御出下すつたさうでしたが、生憎《あいにく》と留守にいたしやして。』
 斯《か》ういふ挨拶をすると、蓮太郎は丁寧に亡《な》くなつた人の弔辞《くやみ》を述べた。
 四人は早く発《た》つた。朝じめりのした街道の土を踏んで、深い霧の中を辿《たど》つて行つた時は、遠近《をちこち》に鶏の鳴き交す声も聞える。其日は春先のやうに温暖《あたゝか》で、路傍の枯草も蘇生《いきかへ》るかと思はれる程。灰色の水蒸気は低く集つて来て、僅かに離れた杜《もり》の梢《こずゑ》も遠く深く烟《けぶ》るやうに見える。四人は後になり前になり、互に言葉を取交し乍ら歩いた。就中《わけても》、弁護士の快活な笑声は朝の空気に響き渡る。思はず足も軽く道も果取《はかど》つたのである。
 東上田へ差懸つた頃、蓮太郎と丑松の二人は少許《すこし》連《つれ》に後《おく》れた。次第に道路《みち》は明くなつて、ところ/″\に青空も望まれるやうに成つた。白い光を帯び乍ら、頭の上を急いだは、朝雲の群。行先《ゆくて》にあたる村落も形を顕《あらは》して、草葺《くさぶき》の屋根からは煙の立ち登る光景《さま》も見えた。霧の眺めは、今、おもしろく晴れて行くのである。
 蓮太郎は苦しい様子も見せなかつた。この石塊《いしころ》の多い歩き難い道を彼様《あゝ》して徒歩《ひろ》つても可《
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