打球板《ラッケット》を奪ひ取らうとした少年なぞは、手を拍《う》つて、雀躍《こをどり》して、喜んだ。思はず校長も声を揚げて、文平の勝利を祝ふといふ風であつた。
『瀬川君、零敗《ゼロまけ》とはあんまりぢやないか。』
といふ銀之助の言葉を聞捨てゝ、丑松はそこに置いた羽織を取上げながら、すご/\と退いた。やがて斯《こ》の運動場《うんどうば》から裏庭の方へ廻つて、誰も見て居ないところへ来ると、不図何か思出したやうに立留つた。さあ、丑松は自分で自分を責めずに居られなかつたのである。蓮太郎――大日向――それから仙太、斯う聯想した時は、猜疑《うたがひ》と恐怖《おそれ》とで戦慄《ふる》へるやうになつた。噫《あゝ》、意地の悪い智慧《ちゑ》はいつでも後から出て来る。
第六章
(一)
天長節の夜は宿直の当番であつたので、丑松銀之助の二人は学校に残つた。敬之進は急に心細く、名残惜しくなつて、いつまでも此処を去り兼ねる様子。夕飯の後、まだ宿直室に話しこんで、例の愚痴の多い性質から、生先《おひさき》長い二人に笑はれて居るうちに、壁の上の時計は八時打ち、九時打つた。それは翌朝《よくあさ》の霜の烈しさを思はせるやうな晩で、日中とは違つて、めつきり寒かつた。丑松が見廻りの為に出て行つた後、まだ敬之進は火鉢の傍に齧《かじ》り付いて、銀之助を相手に掻口説《かきくど》いて居た。
軈《やが》て二十分ばかり経つて丑松は帰つて来た。手提洋燈《てさげランプ》を吹消して、急いで火鉢の側《わき》に倚添ひ乍ら、『いや、もう屋外《そと》は寒いの寒くないのツて、手も何も凍《かじか》んで了ふ――今夜のやうに酷烈《きび》しいことは今歳《ことし》になつて始めてだ。どうだ、君、是通りだ。』と丑松は氷のやうに成つた手を出して、銀之助に触つた。『まあ、何といふ冷い手だらう。』斯《か》う言つて、自分の手を引込まして、銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めたのである。
『顔色が悪いねえ、君は――奈何《どう》かしやしないか。』
と思はず其を口に出した。敬之進も同じやうに不審を打つて、
『我輩も今、其を言はうかと思つて居たところさ。』
丑松は何か思出したやうに慄へて、話さうか、話すまいか、と暫時《しばらく》躊躇《ちうちよ》する様子にも見えたが、あまり二人が熱心に自分の顔を熟視《みまも》るので、つい/\打明けずには居られなく成つて来た。
『実はねえ――まあ、不思議なことがあるんだ。』
『不思議なとは?』と銀之助も眉をひそめる。
『斯ういふ訳さ――僕が手提洋燈《てさげランプ》を持つて、校舎の外を一廻りして、あの運動場の木馬のところまで行くと、誰か斯う僕を呼ぶやうな声がした。見れば君、誰も居ないぢやないか。はてな、聞いたやうな声だと思つて、考へて見ると、其筈《そのはず》さ――僕の阿爺《おやぢ》の声なんだもの。』
『へえ、妙なことが有れば有るものだ。』と敬之進も不審《いぶか》しさうに、『それで、何ですか、奈何《どん》な風に君を呼びましたか、其声は。』
『「丑松、丑松」とつゞけざまに。』
『フウ、君の名前を?』と敬之進はもう目を円《まる》くして了《しま》つた。
『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑出して、『馬鹿なことを言ひたまへ。瀬川君も余程《よツぽど》奈何《どう》かして居るんだ。』
『いや、確かに呼んだ。』と丑松は熱心に。
『其様《そん》な事があつて堪るものか。何かまた間違へでも為たんだらう。』
『土屋君、君は左様《さう》笑ふけれど、確かに僕の名を呼んだに相違ないよ。風が呻吟《うな》つたでも無ければ、鳥が啼いたでも無い。そんな声を、まさかに僕だつて間違へる筈も無からうぢやないか。どうしても阿爺だ。』
『君、真実《ほんたう》かい――戯語《じようだん》ぢや無いのかい――また欺《かつ》ぐんだらう。』
『土屋君は其だから困る。僕は君これでも真面目《まじめ》なんだよ。確かに僕は斯《こ》の耳で聞いて来た。』
『其耳が宛《あて》に成らないサ。君の父上《おとつ》さんは西乃入《にしのいり》の牧場に居るんだらう。あの烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の谷間《たにあひ》に居るんだらう。それ、見給へ。其|父上《おとつ》さんが斯様《こん》な隔絶《かけはな》れた処に居る君の名前を呼ぶなんて――馬鹿らしい。』
『だから不思議ぢやないか。』
『不思議? ちよツ、不思議といふのは昔の人のお伽話《とぎばなし》だ。はゝゝゝゝ、智識の進んで来た今日、そんな馬鹿らしいことの有るべき筈が無い。』
『しかし、土屋君。』と敬之進は引取つて、『左様《さう》君のやうに一概に言つたものでもないよ。』
『はゝゝゝゝ、旧弊な人は是だから困る。』と銀之助は嘲《あざけ》るやうに笑つた。
急に丑松は聞耳を立てた。復《ま》た何か聞きつけたといふ風で、すこし顔色を変へて、言ふに言はれぬ恐怖《おそれ》を表したのである。戯れて居るので無いといふことは、其真面目な眼付を見ても知れた。
『や――復た呼ぶ声がする。何だか斯う窓の外の方で。』と丑松は耳を澄まして、『しかし、あまり不思議だ。一寸、僕は失敬するよ――もう一度行つて見て来るから。』
ぷいと丑松は駈出して行つた。
さあ、銀之助は友達のことが案じられる。敬之進はもう心に驚いて了《しま》つて、何かの前兆《しらせ》では有るまいか――第一、父親の呼ぶといふのが不思議だ、と斯う考へつゞけたのである。
『それはさうと、』と敬之進は思付いたやうに、『斯うして吾儕《われ/\》ばかり火鉢にあたつて居るのも気懸《きがゝ》りだ。奈何《どう》でせう、二人で行つて見てやつては。』
『むゝ、左様《さう》しませうか。』と銀之助も火鉢を離れて立上つた。『瀬川君はすこし奈何《どう》かしてるんでせうよ。まあ、僕に言はせると、何か神経の作用なんですねえ――兎《と》に角《かく》、それでは一寸待つて下さい。僕が今、手提洋燈《てさげランプ》を点《つ》けますから。』
(二)
深い思に沈み乍ら、丑松は声のする方へ辿《たど》つて行つた。見れば宿直室の窓を泄《も》れる灯《ひ》が、僅に庭の一部分を照して居るばかり。校舎も、樹木も、形を潜めた。何もかも今は夜の空気に包まれて、沈まり返つて、闇に隠れて居るやうに見える。それは少許《すこし》も風の無い、※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》とした晩で、寒威《さむさ》は骨に透徹《しみとほ》るかのやう。恐らく山国の気候の烈しさを知らないものは、斯《か》うした信濃の夜を想像することが出来ないであらう。
父の呼ぶ声が復《ま》た聞えた。急に丑松は立留つて、星明りに周囲《そこいら》を透《すか》して視《み》たが、別に人の影らしいものが目に入るでも無かつた。すべては皆な無言である。犬一つ啼いて通らない斯の寒い夜に、何が音を出して丑松の耳を欺かう。
『丑松、丑松。』
とまた呼んだ。さあ、丑松は畏《おそ》れず慄《ふる》へずに居られなかつた。心はもう底の底までも掻乱《かきみだ》されて了《しま》つたのである。たしかに其は父の声で――皺枯《しやが》れた中にも威厳のある父の声で、あの深い烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の谷間《たにあひ》から、遠く斯《こ》の飯山に居る丑松を呼ぶやうに聞えた。目をあげて見れば、空とても矢張《やはり》地の上と同じやうに、音も無ければ声も無い。風は死に、鳥は隠れ、清《すゞ》しい星の姿ところ/″\。銀河の光は薄い煙のやうに遠く荘厳《おごそか》な天を流れて、深大な感動を人の心に与へる。さすがに幽《かすか》な反射はあつて、仰げば仰ぐほど暗い藍色の海のやうなは、そこに他界を望むやうな心地もせらるゝのであつた。声――あの父の呼ぶ声は、斯の星夜の寒空を伝つて、丑松の耳の底に響いて来るかのやう。子の霊魂《たましひ》を捜すやうな親の声は確かに聞えた。しかし其意味は。斯う思ひ迷つて、丑松はあちこち/\と庭の内を歩いて見た。
あゝ、何を其様《そんな》に呼ぶのであらう。丑松は一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。自分の精神の内部《なか》の苦痛《くるしみ》が、子を思ふ親の情からして、自然と父にも通じたのであらうか。飽くまでも素性を隠せ、今日までの親の苦心を忘れるな、といふ意味であらうか。それで彼の牧場の番小屋を出て、自分のことを思ひ乍ら呼ぶ其声が谿谷《たに》から谿谷へ響いて居るのであらうか。それとも、また、自分の心の迷ひであらうか。といろ/\に想像して見て、終《しまひ》には恐怖《おそれ》と疑心《うたがひ》とで夢中になつて、『阿爺《おとつ》さん、阿爺さん。』と自分の方から目的《あてど》もなく呼び返した。
『やあ、君は其処に居たのか。』
と声を掛けて近《ちかづ》いたのは銀之助。つゞいて敬之進も。二人はしきりに手提洋燈《てさげランプ》をさしつけて、先づ丑松の顔を調べ、身の周囲《まはり》を調べ、それから闇を窺《うかゞ》ふやうにして見て、さて丑松からまた/\父の呼声のしたことを聞取つた。
『土屋君、それ見たまへ。』
敬之進は寒さと恐怖《おそれ》とで慄へ乍ら言つた。銀之助は笑つて、
『どうしても其様《そん》なことは理窟に合はん。必定《きつと》神経の故《せゐ》だ。一体、瀬川君は妙に猜疑深《うたがひぶか》く成つた。だから其様《そん》な下らないものが耳に聞えるんだ。』
『左様《さう》かなあ、神経の故《せゐ》かなあ。』斯う丑松は反省するやうな調子で言つた。
『だつて君、考へて見たまへ。形の無いところに形が見えたり、声の無いところに声が聞えたりするなんて、それそこが君の猜疑深《うたがひぶか》く成つた証拠さ。声も、形も、其は皆な君が自分の疑心から産出《うみだ》した幻だ。』
『幻?』
『所謂《いはゆる》疑心暗鬼といふ奴だ。耳に聞える幻――といふのも少許《すこし》変な言葉だがね、まあ左様《さう》いふことも言へるとしたら、其が今夜君の聞いたやうな声なんだ。』
『あるひは左様《さう》かも知れない。』
暫時《しばらく》、三人は無言になつた。天も地も※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》として、声が無かつた。急に是の星夜の寂寞《せきばく》を破つて、父の呼ぶ声が丑松の耳の底に響いたのである。
『丑松、丑松。』
と次第に幽《かすか》になつて、啼《な》いて空を渡る夜の鳥のやうに、終《しまひ》には遠く細く消えて聞えなくなつて了つた。
『瀬川君。』と銀之助は手提洋燈をさしつけて、顔色を変へた丑松の様子を不思議さうに眺め乍ら、『どうしたい――君は。』
『今、また阿爺《おやぢ》の声がした。』
『今? 何にも聞えやしなかつたぢやないか。』
『ホウ、左様《さう》かねえ。』
『左様かねえもないもんだ。何《なんに》も声なぞは聞えやしないよ。』と言つて、銀之助は敬之進の方へ向いて、『風間さん、奈何《どう》でした――何か貴方には聞えましたか。』
『いゝえ。』と敬之進も力を入れた。
『ホウラ。風間さんにも聞えなければ、僕にも聞えない。聞いたのは、唯君ばかりだ。神経、神経――どうしても其に相違ない。』
斯う言つて、軈て銀之助はあちこちと闇を照らして見た。天は今僅かに星の映る鏡、地は今大な暗い影のやう。一つとして声のありさうなものが、手提洋燈の光に入るでもなかつた。『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出して、『まあ、僕は耳に聞いたつて信じられない。目に見たつて信じられない。手に取つて、触《さは》つて見て、それからでなければ其様《そん》なことは信じられない。いよ/\こりやあ、僕の観察の通りだ。生理的に其様な声が聞えたんだ。はゝゝゝゝ。それはさうと、馬鹿に寒く成つて来たぢやないか。僕は最早《もう》斯うして立つて居られなくなつた――行かう。』
(三)
其晩、寝床へ入つてからも、丑松は父と先輩とのことを考へて、寝られなかつた。銀之助は直にもう高鼾《たかいびき》。どんなに丑松は傍に枕を並べて居る友達の寝顔を熟視《みまも》つて、その平穏《おだやか》な、安静《しづか》な睡眠《ねむり》を羨んだらう。夜も更《ふ》けた頃、むつくと寝
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