やうにして、少年の群を離れた。
 今朝の大霜で、学校の裏庭にある樹木は大概落葉して了《しま》つたが、桜ばかりは未だ秋の名残をとゞめて居た。丑松は其葉蔭を選んで、時々|私語《さゝや》くやうに枝を渡る微風の音にも胸を踊らせ乍ら、懐中《ふところ》から例の新聞を取出して展《ひろ》げて見ると――蓮太郎の容体は余程|危《あやふ》いやうに書いてあつた。記者は蓮太郎の思想に一々同意するものでは無いが、兎《と》も角《かく》も新平民の中から身を起して飽くまで奮闘して居る其意気を愛せずには居られないと書いてあつた。惜まれて逝《ゆ》く多くの有望な人々と同じやうに、今また斯の人が同じ病苦に呻吟《しんぎん》すると聞いては、うたゝ同情の念に堪へないと書いてあつた。思ひあたることが無いでもない、人に迫るやうな渠《かれ》の筆の真面目《しんめんもく》は斯うした悲哀《あはれ》が伴ふからであらう、斯ういふ記者も亦《ま》たその為に薬籠《やくろう》に親しむ一人であると書いてあつた。
 動揺する地上の影は幾度か丑松を驚かした。日の光は秋風に送られて、かれ/″\な桜の霜葉をうつくしくして見せる。蕭条《せうでう》とした草木の凋落《てうらく》は一層先輩の薄命を冥想《めいさう》させる種となつた。

       (三)

 敬之進の為に開いた茶話会は十一時頃からあつた。其日の朝、蓮華寺を出る時、丑松は廊下のところでお志保に逢つて、この不幸な父親を思出したが、斯うして会場の正面に座《す》ゑられた敬之進を見ると、今度は反対《あべこべ》に彼の古壁に倚凭つた娘のことを思出したのである。敬之進の挨拶は長い身の上の述懐であつた。憐むといふ心があればこそ、丑松ばかりは首を垂れて聞いて居たやうなものゝ、さもなくて、誰が老《おい》の繰言《くりごと》なぞに耳を傾けよう。
 茶話会の済んだ後のことであつた。丁度|庭球《テニス》の遊戯《あそび》を為るために出て行かうとする文平を呼留めて、一緒に校長はある室の戸を開けて入つた。差向ひに椅子に腰掛けたは運動場近くにある窓のところで、庭球《テニス》狂《きちがひ》の銀之助なぞが呼び騒ぐ声も、玻璃《ガラス》に響いて面白さうに聞えたのである。
『まあ、勝野君、左様《さう》運動にばかり夢中にならないで、すこし話したまへ。』と校長は忸々敷《なれ/\しく》、『時に、奈何《どう》でした、今日の演説は?』
『先生の御演説ですか。』と文平が打球板《ラッケット》を膝の上に載せて、『いや、非常に面白く拝聴《うかゞ》ひました。』
『左様《さう》ですかねえ――少許《すこし》は聞きごたへが有ましたかねえ。』
『御世辞でも何でも無いんですが、今迄私が拝聴《うかゞ》つた中《うち》では、先《ま》づ第一等の出来でしたらう。』
『左様《さう》言つて呉れる人があると難有《ありがた》い。』と校長は微笑み乍ら、『実は彼《あ》の演説をするために、昨夜《ゆうべ》一晩かゝつて準備《したく》しましたよ。忠孝といふ字義の解釈は奈何《どう》聞えました。我輩の積りでは、あれでも余程|頭脳《あたま》を痛めたのさ。種々《いろ/\》な字典を参考するやら、何やら――そりやあもう、君。』
『どうしても調べたものは調べた丈のことが有ます。』
『しかし、真実《ほんたう》に聞いて呉れた人は君くらゐのものだ。町の人なぞは空々寂々――いや、実際、耳を持たないんだからねえ。中には、高柳の話に酷《ひど》く感服してる人がある。彼様《あん》な演説屋の話と、吾儕《われ/\》の言ふことゝを、一緒にして聞かれて堪《たま》るものかね。』
『どうせ解らない人には解らないんですから。』
 と文平に言はれて、不平らしい校長の顔付は幾分《いくら》か和《やはら》いで来た。
 其時迄、校長は何か言ひたいことがあつて、それを言はないで、反《かへ》つて斯《か》ういふ談話《はなし》をして居るといふ風であつたが、軈《やが》て思ふことを切出した。わざ/\文平を呼留めて斯室へ連れて来たのは、どうかして丑松を退ける工夫は無いか、それを相談したい下心であつたのである。『と云ふのはねえ、』と校長は一段声を低くした。『瀬川君だの、土屋君だの、彼様《あゝ》いふ異分子が居ると、どうも学校の統一がつかなくて困る。尤《もつと》も土屋君の方は、農科大学の助手といふことになつて、遠からず出掛けたいやうな話ですから――まあ斯人《このひと》は黙つて居ても出て行く。難物は瀬川君です。瀬川君さへ居なくなつて了へば、後は君、もう吾儕《われ/\》の天下さ。どうかして瀬川君を廃《よ》して、是非其後へは君に座《すわ》つて頂きたい。実は君の叔父さんからも種々《いろ/\》御話が有ましたがね、叔父さんも矢張《やつぱり》左様《さう》いふ意見なんです。何とか君、巧《うま》い工夫はあるまいかねえ。』
『左様《さう》ですなあ。』と文平は返事に困つた。
『生徒を御覧なさい――瀬川先生、瀬川先生と言つて、瀬川君ばかり大騒ぎしてる。彼様《あんな》に大騒ぎするのは、瀬川君の方で生徒の機嫌を取るからでせう? 生徒の機嫌を取るといふのは、何か其処に訳があるからでせう? 勝野君、まあ君は奈何《どう》思ひます。』
『今の御話は私に克《よ》く解りません。』
『では、君、斯う言つたら――これはまあ是限《これぎ》りの御話なんですがね、必定《きつと》瀬川君は斯の学校を取らうといふ野心があるに相違《ちがひ》ないんです。』
『はゝゝゝゝ、まさか其程にも思つて居ないでせう。』と笑つて、文平は校長の顔を熟視《みまも》つた。
『でせうか?』と校長は疑深く、『思つて居ないでせうか?』
『だつて、未《ま》だ其様《そん》なことを考へるやうな年齢《とし》ぢや有ません――瀬川君にしろ、土屋君にしろ、未だ若いんですもの。』
 この『若いんですもの』が校長を嘆息させた。庭で遊ぶ庭球《テニス》の球の音はおもしろく窓の玻璃《ガラス》に響いた。また一勝負始まつたらしい。思はず文平は聞耳を立てた。その文平の若々しい顔付を眺めると、校長は更に嘆息して、
『一体、瀬川君なぞは奈何《どう》いふことを考へて居るんでせう。』
『奈何いふことゝは?』と文平は不思議さうに。
『まあ、近頃の瀬川君の様子を見るのに、非常に沈んで居る――何か斯う深く考へて居る――新しい時代といふものは彼様《あゝ》物を考へさせるんでせうか。どうも我輩には不思議でならない。』
『しかし、瀬川君の考へて居るのは、何か別の事でせう――今、先生の仰つたやうな、其様《そん》な事ぢや無いでせう。』
『左様《さう》なると、猶々《なほ/\》我輩には解釈が付かなくなる。どうも我輩の時代に比べると、瀬川君なぞの考へて居ることは全く違ふやうだ。我輩の面白いと思ふことを、瀬川君なぞは一向詰らないやうな顔してる。我輩の詰らないと思ふことを、反つて瀬川君なぞは非常に面白がつてる。畢竟《つまり》一緒に事業《しごと》が出来ないといふは、時代が違ふからでせうか――新しい時代の人と、吾儕《われ/\》とは、其様《そんな》に思想《かんがへ》が合はないものなんでせうか。』
『ですけれど、私なぞは左様《さう》思ひません。』
『そこが君の頼母《たのも》しいところさ。何卒《どうか》、君、彼様《あゝ》いふ悪い風潮に染まないやうにして呉れたまへ。及ばずながら君のことに就いては、我輩も出来るだけの力を尽すつもりだ。世の中のことは御互ひに助けたり助けられたりさ――まあ、勝野君、左様《さう》ぢや有ませんか。今|茲《こゝ》で直に異分予を奈何《どう》するといふ訳にもいかない。ですから、何か好い工夫でも有つたら、考へて置いて呉れたまへ――瀬川君のことに就いて何か聞込むやうな場合でも有つたら、是非それを我輩に知らせて呉れたまへ。』

       (四)

 盛んな遊戯の声がまた窓の外に起つた。文平は打球板《ラッケット》を提げて出て行つた。校長は椅子を離れて玻璃《ガラス》の戸を上げた。丁度運動場では庭球《テニス》の最中。大人びた風の校長は、まだ筋骨の衰頽《おとろへ》を感ずる程の年頃でも無いが、妙に遊戯の嫌ひな人で、殊に若いものゝ好な庭球などゝ来ては、昔の東洋風の軽蔑《けいべつ》を起すのが癖。だから、『何を、児戯《こども》らしいことを』と言つたやうな目付して、夢中になつて遊ぶ人々の光景《ありさま》を眺めた。
 地は日の光の為に乾き、人は運動の熱の為に燃えた。いつの間にか文平は庭へ出て、遊戯の仲間に加つた。銀之助は今、文平の組を相手にして、一戦を試みるところ。流石《さすが》の庭球狂《テニスきちがひ》もさん/″\に敗北して、軈《やが》て仲間の生徒と一緒に、打球板《ラッケット》を捨てゝ退いた。敵方の揚げる『勝負有《ゲエム》』の声は、拍手の音に交つて、屋外《そと》の空気に響いておもしろさうに聞える。東よりの教室の窓から顔を出した二三の女教師も、一緒になつて手を叩《たゝ》いて居た。其時、幾組かに別れて見物した生徒の群は互ひに先を争つたが、中に一人、素早く打球板《ラッケット》を拾つた少年があつた。新平民の仙太と見て、他の生徒が其側へ馳寄《かけよ》つて、無理無体に手に持つ打球板《ラッケット》を奪ひ取らうとする。仙太は堅く握つた儘《まゝ》、そんな無法なことがあるものかといふ顔付。それはよかつたが、何時まで待つて居ても組のものが出て来ない。『さあ、誰か出ないか』と敵方は怒つて催促する。少年の群は互ひに顔を見合せて、困つて立つて居る仙太を冷笑して喜んだ。誰も斯《こ》の穢多の子と一緒に庭球の遊戯《あそび》を為ようといふものは無かつたのである。
 急に、羽織を脱ぎ捨てゝ、そこにある打球板《ラッケット》を拾つたは丑松だ。それと見た人々は意味もなく笑つた。見物して居る女教師も微笑《ほゝゑ》んだ。文平|贔顧《びいき》の校長は、丑松の組に勝たせたくないと思ふかして、熱心になつて窓から眺《なが》めて居た。丁度午後の日を背後《うしろ》にしたので、位置の利は始めから文平の組の方にあつた。
『壱《ワン》、零《ゼロ》。』
 と呼ぶのは、網の傍に立つ審判官の銀之助である。丑松仙太は先づ第一の敗を取つた。見物して居る生徒は、いづれも冷笑を口唇《くちびる》にあらはして、仙太の敗を喜ぶやうに見えた。
『弐《ツウ》、零《ゼロ》。』
 と銀之助は高く呼んだ。丑松の組は第二の敗を取つたのである。『弐《ツウ》、零《ゼロ》。』と見物の生徒は聞えよがしに繰返した。
 敵方といふのは、年若な準教員――それ、丑松が蓮華寺へ明間《あきま》を捜しに行つた時、帰路《かへり》に遭遇《であ》つた彼男と、それから文平と、斯う二人の組で、丑松に取つては侮《あなど》り難い相手であつた。それに、敵方の力は揃つて居るに引替へ、味方の仙太はまだ一向に練習が足りない。
『参《スリイ》、零《ゼロ》。』
 と呼ぶ声を聞いた時は、丑松もすこし気を苛《いら》つた。人種と人種の競争――それに敗《ひけ》を取るまいといふ丑松の意気が、何となく斯様《こん》な遊戯の中にも顕《あら》はれるやうで、『敗《まけ》るな、敗けるな』と弱い仙太を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》ますのであつた。丑松は撃手《サアブ》。最後の球を打つ為に、外廓《そとぐるわ》の線の一角に立つた。『さあ、来い』と言はぬばかりの身構へして、窺《うかゞ》ひ澄まして居る文平を目がけて、打込んだ球はかすかに網に触れた。『触《タッチ》』と銀之助の一声。丑松は二度目の球を試みた。力あまつて線を越えた。ああ、『落《フオウル》』だ。丑松も今は怒気を含んで、満身の力を右の腕に籠め乍ら、勝つも負けるも運は是球一つにあると、打込む勢は獅子奮進。青年の時代に克《よ》くある一種の迷想から、丁度一生の運命を一時の戯《たはむれ》に占ふやうに見える。『内《イン》』と受けた文平もさるもの。故意《わざ》と丑松の方角を避けて、うろ/\する仙太の虚《すき》を衝《つ》いた。烈しい日の光は真正面《まとも》に射して、飛んで来る球のかたちすら仙太の目には見えなかつたのである。
『勝負有《ゲエム》。』
 と人々は一音に叫んだ。仙太の手から
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