け――へえ、斯様《こん》な本かい――斯様な質素な本かい。まあ君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。はゝゝゝゝ、よく君の話には猪子先生が出るからねえ。嘸《さぞ》かしまた聞かせられることだらうなあ。』
『馬鹿言ひたまへ。』
 と丑松も笑つて其本を受取つた。
 夕靄《ゆふもや》の群は低く集つて来て、あそこでも、こゝでも、最早《もう》ちら/\灯《あかり》が点《つ》く。丑松は明後日あたり蓮華寺へ引越すといふ話をして、この友達と別れたが、やがて少許《すこし》行つて振返つて見ると、銀之助は往来の片隅に佇立《たゝず》んだ儘《まゝ》、熟《じつ》と是方《こちら》を見送つて居た。半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕餐《ゆふげ》の煙は町の空を籠めて、悄然《しよんぼり》とした友達の姿も黄昏《たそが》れて見えたのである。

       (三)

 鷹匠町の下宿近く来た頃には、鉦《かね》の声が遠近《をちこち》の空に響き渡つた。寺々の宵の勤行《おつとめ》は始まつたのであらう。丁度下宿の前まで来ると、あたりを警《いまし》める人足の声も聞えて、提灯《ちやうちん》の光に宵闇の道を照
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