つたばかりの男。散歩とは二人のぶら/\やつて来る様子でも知れた。
『瀬川君、大層遅いぢやないか。』
 と銀之助は洋杖《ステッキ》を鳴し乍ら近《ちかづ》いた。
 正直で、しかも友達思ひの銀之助は、直に丑松の顔色を見て取つた。深く澄んだ目付は以前の快活な色を失つて、言ふに言はれぬ不安の光を帯びて居たのである。『あゝ、必定《きつと》身体《からだ》の具合でも悪いのだらう』と銀之助は心に考へて、丑松から下宿を探しに行つた話を聞いた。
『下宿を? 君はよく下宿を取替へる人だねえ――此頃《こなひだ》あそこの家《うち》へ引越したばかりぢやないか。』
 と毒の無い調子で、さも心《しん》から出たやうに笑つた。其時丑松の持つて居る本が目についたので、銀之助は洋杖を小脇に挾んで、見せろといふ言葉と一緒に右の手を差出した。
『是かね。』と丑松は微笑《ほゝゑ》みながら出して見せる。
『むゝ、「懴悔録」か。』と準教員も銀之助の傍に倚添《よりそ》ひながら眺めた。
『相変らず君は猪子先生のものが好きだ。』斯う銀之助は言つて、黄色い本の表紙を眺めたり、一寸|内部《なか》を開けて見たりして、『さう/\新聞の広告にもあつたツ
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