一文無しで暮さなければならぬ。転宿《やどがへ》の用意もしなければならぬ。斯ういふ思想《かんがへ》に制せられて、一旦は往きかけて見たやうなものゝ、やがて、復《ま》た引返した。ぬつと暖簾《のれん》を潜つて入つて、手に取つて見ると――それはすこし臭気《にほひ》のするやうな、粗悪な洋紙に印刷した、黄色い表紙に『懴悔録』としてある本。貧しい人の手にも触れさせたいといふ趣意から、わざと質素な体裁を択《えら》んだのは、是書《このほん》の性質をよく表して居る。あゝ、多くの青年が読んで知るといふ今の世の中に、飽くことを知らない丑松のやうな年頃で、どうして読まず知らずに居ることが出来よう。智識は一種の饑渇《ひもじさ》である。到頭四十銭を取出して、欲《ほし》いと思ふ其本を買求めた。なけなしの金とはいひ乍《なが》ら、精神《こゝろ》の慾には替へられなかつたのである。
『懴悔録』を抱いて――買つて反つて丑松は気の衰頽《おとろへ》を感じ乍ら、下宿をさして帰つて行くと、不図《ふと》、途中で学校の仲間に出逢《であ》つた。一人は土屋銀之助と言つて、師範校時代からの同窓の友。一人は未《ま》だ極《ご》く年若な、此頃準教員に成
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