松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。『彼処《あそこ》へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か』と言つたやうな顔付をして、酷《はなはだ》しい軽蔑《けいべつ》の色を顕《あらは》して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅猿《あさま》しくもあり、腹立たしくもあり、遽《にはか》に不愉快になつてすたすた歩き初めた。
本町の雑誌屋は近頃出来た店。其前には新着の書物を筆太に書いて、人目を引くやうに張出してあつた。かねて新聞の広告で見て、出版の日を楽みにして居た『懴悔録』――肩に猪子《ゐのこ》蓮太郎氏著、定価までも書添へた広告が目につく。立ちどまつて、其人の名を思出してさへ、丑松はもう胸の踊るやうな心地《こゝち》がしたのである。見れば二三の青年が店頭《みせさき》に立つて、何か新しい雑誌でも猟《あさ》つて居るらしい。丑松は色の褪《あ》せたズボンの袖嚢《かくし》の内へ手を突込んで、人知れず銀貨を鳴らして見ながら、幾度か其雑誌屋の前を往つたり来たりした。兎《と》に角《かく》、四十銭あれば本が手に入る。しかし其を今|茲《こゝ》で買つて了へば、明日は
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