ませんがね、私はまた月が変つてから来《いら》つしやるかと思ひましてサ。』
『むゝ、これはおほきに左様《さう》でしたなあ。実は私も急に引越しを思ひ立つたものですから。』
 と何気なく言消して、丑松は故意《わざ》と話頭《はなし》を変へて了《しま》つた。下宿の出来事は烈しく胸の中を騒がせる。それを聞かれたり、話したりすることは、何となく心に恐しい。何か穢多に関したことになると、毎時《いつ》もそれを避けるやうにするのが是男の癖である。
『なむあみだぶ。』
 と口の中で唱へて、奥様は別に深く掘つて聞かうともしなかつた。

       (二)

 蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤務《つとめ》の儘の服装《みなり》で居る。白墨と塵埃《ほこり》とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下駄穿《げたばき》、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞恥《はぢ》――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹匠《たかしやう》町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑
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