茶色小紋の羽織を着て、痩せた白い手に珠数《ずゝ》を持ち乍《なが》ら、丑松の前に立つた。土地の習慣《ならはし》から『奥様』と尊敬《あが》められて居る斯《こ》の有髪《うはつ》の尼は、昔者として多少教育もあり、都会《みやこ》の生活も万更《まんざら》知らないでも無いらしい口の利き振であつた。世話好きな性質を額にあらはして、微な声で口癖のやうに念仏して、対手《あひて》の返事を待つて居る様子。
其時、丑松も考へた。明日《あす》にも、今夜にも、と言ひたい場合ではあるが、さて差当つて引越しするだけの金が無かつた。実際持合せは四十銭しかなかつた。四十銭で引越しの出来よう筈も無い。今の下宿の払ひもしなければならぬ。月給は明後日《あさつて》でなければ渡らないとすると、否《いや》でも応でも其迄待つより外はなかつた。
『斯うしませう、明後日の午後《ひるすぎ》といふことにしませう。』
『明後日?』と奥様は不思議さうに対手の顔を眺めた。
『明後日引越すのは其様《そんな》に可笑《をかし》いでせうか。』丑松の眼は急に輝いたのである。
『あれ――でも明後日は二十八日ぢやありませんか。別に可笑いといふことは御座《ござい》
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