六)

『噫《あゝ》。我輩の生涯《しやうがい》なぞは実に碌々《ろく/\》たるものだ。』と敬之進は更に嘆息した。『しかし瀬川君、考へて見て呉れたまへ。君は碌々といふ言葉の内に、どれほどの酸苦が入つて居ると考へる。斯《か》うして我輩は飲むから貧乏する、と言ふ人もあるけれど、我輩に言はせると、貧乏するから飲むんだ。一日たりとも飲まずには居られない。まあ、我輩も、始の内は苦痛《くるしみ》を忘れる為に飲んだのさ。今では左様《さう》ぢや無い、反つて苦痛を感ずる為に飲む。はゝゝゝゝ。と言ふと可笑《をか》しく聞えるかも知れないが、一晩でも酒の気が無からうものなら、寂しくて、寂しくて、身体は最早《もう》がた/\震《ふる》へて来る。寝ても寝られない。左様《さう》なると殆《ほと》んど精神は無感覚だ。察して呉れたまへ――飲んで苦しく思ふ時が、一番我輩に取つては活きてるやうな心地《こゝろもち》がするからねえ。恥を御話すればいろ/\だが、我輩も飯山学校へ奉職する前には、下高井の在で長く勤めたよ。今の家内を貰つたのは、丁度その下高井に居た時のことさ。そこはそれ、在に生れた女だけあつて、働くことは家内も克《よ》く働く
前へ 次へ
全486ページ中89ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング