出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様《そん》な真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆《すつかり》もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆《たふ》れるまで鞭撻《むちう》たれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。』

       (五)

 急に入つて来た少年に妨げられて、敬之進は口を噤《つぐ》んだ。流許《ながしもと》に主婦《かみさん》、暗い洋燈《ランプ》の下で、かちや/\と皿小鉢を鳴らして居たが、其と見て少年の側へ駈寄つた。
『あれ、省吾さんでやすかい。』
 と言はれて、省吾は用事ありげな顔付。
『吾家《うち》の父さんは居りやすか。』
『あゝ居なさりやすよ。』と主婦は答へた。
 敬之進は顔を渋《しか》めた。入口の庭の薄暗いところに佇立《たゝず》んで居る省吾を炉辺《ろばた》まで連れて来て、つく/″\其可憐な様子を眺《なが》め乍《なが》ら、
『奈何《どう》した――何か用か。』
『あの、』と省吾は言淀《いひよど》んで、『母さんがねえ、今夜は早く父さん
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