に御帰りなさいツて。』
『むゝ、また呼びによこしたのか――ちよツ、極《きま》りを遣《や》つてら。』と敬之進は独語《ひとりごと》のやうに言つた。
『そんなら父さんは帰りなさらないんですか。』と省吾はおづ/\尋ねて見る。
『帰るサ――御話が済《す》めば帰るサ。母さんに斯う言へ、父さんは学校の先生と御話して居ますから、其が済めば帰りますツて。』と言つて、敬之進は一段声を低くして、『省吾、母さんは今何してる?』
『籾《もみ》を片付けて居りやす。』
『左様《さう》か、まだ働いてるか。それから彼《あ》の……何か……母さんはまた例《いつも》のやうに怒つてやしなかつたか。』
省吾は答へなかつた。子供心にも、父を憐むといふ目付して、黙つて敬之進の顔を熟視《みまも》つたのである。
『まあ、冷《つめた》さうな手をしてるぢやないか。』と敬之進は省吾の手を握つて、『それ金銭《おあし》を呉れる。柿でも買へ。母さんや進には内証だぞ。さあ最早《もう》それで可《いゝ》から、早く帰つて――父さんが今言つた通りに――よしか。解つたか。』
省吾は首を垂れて、萎《しを》れ乍ら出て行つた。
『まあ聞いて呉れたまへ。』と敬之進
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