《こどんぶり》に盛つて出し、酒は熱燗《あつかん》にして、一本づゝ古風な徳利を二人の膳の上に置いた。
『瀬川君。』と敬之進は手酌でちびり/\始め乍ら、『君が飯山へ来たのは何時でしたつけねえ。』
『私《わたし》ですか。私が来てから最早《もう》足掛三年に成ります。』と丑松は答へた。
『へえ、其様《そんな》に成るかねえ。つい此頃《こなひだ》のやうにしか思はれないがなあ。実に月日の経つのは早いものさ。いや、我輩なぞが老込む筈だよ。君等がずん/\進歩するんだもの。我輩だつて、君、一度は君等のやうな時代もあつたよ。明日は、明日は、明日はと思つて居る内に、もう五十といふ声を聞くやうに成つた。我輩の家《うち》と言ふのはね、もと飯山の藩士で、少年の時分から君侯の御側に勤めて、それから江戸表へ――丁度|御維新《ごいツしん》に成る迄。考へて見れば時勢は還《うつ》り変つたものさねえ。変遷、変遷――見たまへ、千曲川の岸にある城跡を。彼《あ》の名残の石垣が君等の目にはどう見えるね。斯う蔦《つた》や苺《いちご》などの纏絡《まとひつ》いたところを見ると、我輩はもう言ふに言はれないやうな心地《こゝろもち》になる。何処の城
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