無い。一人の農夫が草鞋穿《わらぢばき》の儘《まゝ》、ぐいと『てツぱ』(こつぷ酒)を引掛けて居たが、軈《やが》て其男の姿も見えなくなつて、炉辺《ろばた》は唯二人の専有《もの》となつた。
『今晩は何にいたしやせう。』と主婦《かみさん》は炉の鍵に大鍋を懸け乍ら尋ねた。『油汁《けんちん》なら出来やすが、其ぢやいけやせんか。河で捕れた鰍《かじか》もごはす。鰍でも上げやせうかなあ。』
『鰍?』と敬之進は舌なめずりして、『鰍、結構――それに、油汁と来ては堪《こた》へられない。斯ういふ晩は暖い物に限りますからね。』
 敬之進は酒慾の為に慄へて居た。素面《しらふ》で居る時は、からもう元気の無い人で、言葉もすくなく、病人のやうに見える。五十の上を一つか二つも越したらうか、年の割合には老《ふけ》たといふでも無く、まだ髪は黒かつた。丑松は『藁によ』の蔭で見たり聞いたりした家族のことを思ひ浮べて、一層|斯人《このひと》に親しくなつたやうな心地がした。『ぼや』の火も盛んに燃えた。大鍋の中の油汁《けんちん》は沸々《ふつ/\》と煮立つて来て、甘さうな香《にほひ》が炉辺に満溢《みちあふ》れる。主婦《かみさん》は其を小丼
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