(四)
『おつかれ』(今晩は)と逢《あ》ふ人毎に声を掛けるのは山家の黄昏《たそがれ》の習慣《ならはし》である。丁度新町の町はづれへ出て、帰つて行く農夫に出逢ふ度に、丑松は斯《この》挨拶を交換《とりかは》した。一ぜんめし、御休所、笹屋、としてある家《うち》の前で、また『おつかれ』を繰返したが、其は他の人でもない、例の敬之進であつた。
『おゝ、瀬川君か。』と敬之進は丑松を押留めるやうにして、『好い処で逢つた。何時か一度君とゆつくり話したいと思つて居た。まあ、左様《さう》急がんでもよからう。今夜は我輩に交際《つきあ》つて呉れてもよからう。斯ういふ処で話すのも亦《ま》た一興だ。是非、君に聞いて貰ひたいこともあるんだから――』
斯《か》う慫慂《そゝのか》されて、丑松は敬之進と一緒に笹屋の入口の敷居を跨いで入つた。昼は行商、夜は農夫などが疲労《つかれ》を忘れるのは茲《こゝ》で、大な炉《ろ》には『ぼや』(雑木の枝)の火が赤々と燃上つた。壁に寄せて古甕《ふるがめ》のいくつか並べてあるは、地酒が溢れて居るのであらう。今は農家は忙しい時季《とき》で、長く御輿《みこし》を座《す》ゑるものも
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