とも無くて、斯《か》ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩《あうなう》を感ずれば感ずる程、余計に他界《そと》の自然は活々《いき/\》として、身に染《し》みるやうに思はるゝ。南の空には星一つ顕《あらは》れた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳《おごそか》にして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
『しかし、其が奈何《どう》した。』と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》ますやうに言つた。『自分だつて社会の一員《ひとり》だ。自分だつて他《ひと》と同じやうに生きて居る権利があるのだ。』
 斯の思想《かんがへ》に力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白《ほのじろ》く、槌の音は冷々《ひや/″\》とした空気に響いて、『藁を集めろ』などゝいふ声も幽《かすか》に聞える。立つて是方《こちら》を向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。


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