。音作の女房が周章《あわ》てゝ二人を引分けた時は、兄弟ともに大な声を揚げて泣叫ぶのであつた。
『どうしてまあ兄弟喧嘩《きやうだいげんくわ》を為るんだねえ。』と細君は怒つて、『左様《さう》お前達に側《はた》で騒がれると、母さんは最早《もう》気が狂《ちが》ひさうに成る。』
斯の光景《ありさま》を丑松は『藁によ』の蔭に隠れ乍ら見て居た。様子を聞けば聞くほど不幸な家族を憐まずには居られなくなる。急に暮鐘の音に驚かされて、丑松は其処を離れた。
寂しい秋晩の空に響いて、また蓮華寺の鐘の音が起つた。それは多くの農夫の為に、一日の疲労《つかれ》を犒《ねぎら》ふやうにも、楽しい休息《やすみ》を促《うなが》すやうにも聞える。まだ野に残つて働いて居る人々は、いづれも仕事を急ぎ初めた。今は夕靄《ゆふもや》の群が千曲川《ちくまがは》の対岸を籠《こ》めて、高社山《かうしやざん》一帯の山脈も暗く沈んだ。西の空は急に深い焦茶《こげちや》色に変つたかと思ふと、やがて落ちて行く秋の日が最後の反射を田《た》の面《も》に投げた。向ふに見える杜《もり》も、村落も、遠く暮色に包まれて了つたのである。あゝ、何の煩ひも思ひ傷むこ
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