て、疑ひもせず、疑はれもせず、他《ひと》と自分とを同じやうに考へて、笑つたり騒いだりしたことを憶出した。あの寄宿舎の楽しい窓を憶出した。舎監の赤い髭を憶出した。食堂の麦飯の香《にほひ》を憶出した。よく阿弥陀《あみだ》の※[#「鬥<亀」、第3水準1−94−30]《くじ》に当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。夜の休息《やすみ》を知らせる鐘が鳴り渡つて、軈《やが》て見廻りに来る舎監の靴の音が遠く廊下に響くといふ頃は、沈まりかへつて居た朋輩が復《ま》た起出して、暗い寝室の内で雑談に耽つたことを憶出した。終《しまひ》には往生寺の山の上に登つて、苅萱《かるかや》の墓の畔《ほとり》に立ち乍ら、大《おほき》な声を出して呼び叫んだ時代のことを憶出して見ると――実に一生の光景《ありさま》は変りはてた。楽しい過去の追憶《おもひで》は今の悲傷《かなしみ》を二重にして感じさせる。『あゝ、あゝ、奈何《どう》して俺は斯様《こんな》に猜疑深《うたがひぶか》くなつたらう。』斯う天を仰いで歎息した。急に、意外なところに起る綿のやうな雲を見つけて、しばらく丑松はそれを眺め乍ら考へて居たが、思はず知らず疲
前へ
次へ
全486ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング