来るやうに成つた。眼前《めのまへ》に展《ひろが》る郊外の景色を眺めると、種々《さま/″\》の追憶《おもひで》は丑松の胸の中を往つたり来たりする。丁度斯うして、田圃《たんぼ》の側《わき》に寝そべり乍ら、収穫《とりいれ》の光景《さま》を眺めた彼《あ》の無邪気な少年の時代を憶出《おもひだ》した。烏帽子《ゑぼし》一帯の山脈の傾斜を憶出した。其傾斜に連なる田畠と石垣とを憶出した。茅萱《ちがや》、野菊、其他種々な雑草が霜葉を垂れる畦道《あぜみち》を憶出した。秋風が田の面を渡つて黄な波を揚げる頃は、※[#「阜」の「十」に代えて「虫」、第4水準2−87−44]螽《いなご》を捕つたり、野鼠を追出したりして、夜はまた炉辺《ろばた》で狐と狢《むじな》が人を化かした話、山家で言ひはやす幽霊の伝説、放縦《ほしいまゝ》な農夫の男女《をとこをんな》の物語なぞを聞いて、余念もなく笑ひ興じたことを憶出《おもひだ》した。あゝ、穢多の子といふ辛い自覚の味を知らなかつた頃――思へば一昔――其頃と今とは全く世を隔てたかの心地がする。丑松はまた、あの長野の師範校で勉強した時代のことを憶出した。未だ世の中を知らなかつたところからし
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