なかつた。
 一夜は斯ういふ風に、褥《しとね》の上で慄《ふる》へたり、煩悶《はんもん》したりして、暗いところを彷徨《さまよ》つたのである。翌日《あくるひ》になつて、いよ/\丑松は深く意《こゝろ》を配るやうに成つた。過去《すぎさ》つた事は最早《もう》仕方が無いとして、是《これ》から将来《さき》を用心しよう。蓮太郎の名――人物――著述――一切、彼《あ》の先輩に関したことは決して他《ひと》の前で口に出すまい。斯う用心するやうに成つた。
 さあ、父の与へた戒《いましめ》は身に染々《しみ/″\》と徹《こた》へて来る。『隠せ』――実にそれは生死《いきしに》の問題だ。あの仏弟子が墨染の衣に守り窶《やつ》れる多くの戒も、是《こ》の一戒に比べては、寧《いつ》そ何でもない。祖師を捨てた仏弟子は、堕落と言はれて済む。親を捨てた穢多の子は、堕落でなくて、零落である。『決してそれとは告白《うちあ》けるな』とは堅く父も言ひ聞かせた。これから世に出て身を立てようとするものが、誰が好んで告白《うちあ》けるやうな真似を為よう。
 丑松も漸《やうや》く二十四だ。思へば好い年齢《とし》だ。
 噫《あゝ》。いつまでも斯うして
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