も思はず、長い尻尾を振り乍ら、出たり入つたりする其有様は、憎らしくもあり、をかしくもあり、『き、き』と鳴く声は斯の古い壁の内に秋の夜の寂寥《さびしさ》を添へるのであつた。
 それからそれへと丑松は考へた。一つとして不安に思はれないものはなかつた。深く注意した積りの自分の行為《おこなひ》が、反つて他《ひと》に疑はれるやうなことに成らうとは――まあ、考へれば考へるほど用意が無さ過ぎた。何故《なぜ》、あの大日向が鷹匠町の宿から放逐された時に、自分は静止《じつ》として居なかつたらう。何故《なぜ》、彼様《あんな》に泡を食つて、斯の蓮華寺へ引越して来たらう。何故、あの猪子蓮太郎の著述が出る度に、自分は其を誇り顔に吹聴《ふいちやう》したらう。何故、彼様に先輩の弁護をして、何か斯う彼の先輩と自分との間には一種の関係でもあるやうに他《ひと》に思はせたらう。何故、彼の先輩の名前を彼様《あゝ》他《ひと》の前で口に出したらう。何故、内証で先輩の書いたものを買はなかつたらう。何故、独りで部屋の内に隠れて、読みたい時に密《そつ》と出して読むといふ智慧が出なかつたらう。
 思ひ疲れるばかりで、結局《まとまり》は着か
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