さ》へきれないといふ風で、自分の部屋の内を歩いて見た。其日の物語、あの二人の言つた言葉、あの二人の顔に表れた微細な感情まで思出して見ると、何となく胸肉《むなじゝ》の戦慄《ふる》へるやうな心地がする。先輩の侮辱されたといふことは、第一|口惜《くや》しかつた。賤民だから取るに足らん。斯《か》ういふ無法な言草は、唯考へて見たばかりでも、腹立たしい。あゝ、種族の相違といふ屏※[#「てへん+當」、第4水準2−13−50]《わだかまり》の前には、いかなる熱い涙も、いかなる至情の言葉も、いかなる鉄槌《てつつゐ》のやうな猛烈な思想も、それを動かす力は無いのであらう。多くの善良な新平民は斯うして世に知られずに葬り去らるゝのである。
 斯《こ》の思想《かんがへ》に刺激されて、寝床に入つてからも丑松は眠らなかつた。目を開いて、頭を枕につけて、種々《さま/″\》に自分の一生を考へた。鼠が復た顕れた。畳の上を通る其足音に妨げられては、猶々《なほ/\》夢を結ばない。一旦吹消した洋燈を細目に点《つ》けて、枕頭《まくらもと》を明くして見た。暗い部屋の隅の方に影のやうに動く小《ちひさ》な動物の敏捷《はしこ》さ、人を人と
前へ 次へ
全486ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング