生きたい。と願へば願ふほど、余計に穢多としての切ない自覚が湧き上るのである。現世の歓楽は美しく丑松の眼に映じて来た。たとへ奈何《いか》なる場合があらうと、大切な戒ばかりは破るまいと考へた。


   第四章

       (一)

 郊外は収穫《とりいれ》の為に忙《せは》しい時節であつた。農夫の群はいづれも小屋を出て、午後の労働に従事して居た。田《た》の面《も》の稲は最早《もう》悉皆《すつかり》刈り乾して、すでに麦さへ蒔付《まきつ》けたところもあつた。一年《ひとゝせ》の骨折の報酬《むくい》を収めるのは今である。雪の来ない内に早く。斯うして千曲川の下流に添ふ一面の平野は、宛然《あだかも》、戦場の光景《ありさま》であつた。
 其日、丑松は学校から帰ると直に蓮華寺を出て、平素《ふだん》の勇気を回復《とりかへ》す積りで、何処へ行くといふ目的《めあて》も無しに歩いた。新町の町はづれから、枯々な桑畠の間を通つて、思はず斯《こ》の郊外の一角へ出たのである。積上げた『藁《わら》によ』の片蔭に倚凭《よりかゝ》つて、霜枯れた雑草の上に足を投出し乍ら、肺の底までも深く野の空気を吸入れた時は、僅に蘇生《いき
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