う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色《けしき》はもう顔に表れたのである。
『そりやあ寺の方が静は静だ。』と銀之助は一向頓着なく、『何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出《おひだ》されたさうだねえ。』
『さう/\、左様《さう》いふ話ですなあ。』と文平も相槌《あひづち》を打つた。
『だから僕は斯う思つたのさ。』と銀之助は引取つて、『何か其様《そん》な一寸したつまらん事にでも感じて、それで彼《あの》下宿が嫌に成つたんぢやないかと。』
『どうして?』と丑松は問ひ反した。
『そこがそれ、君と僕と違ふところさ。』と銀之助は笑ひ乍ら、『実は此頃《こなひだ》或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居《すまひ》の側《わき》に猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳《あたま》の人になると、捨てられた猫を見たのが移転《ひつこし》の動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君
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